ある妹の独白
番外
私の姉は、少し変わっている。
賢くて優しくて、自慢の姉だけど、感覚が独特というか、普通とは言い難いような。
それでも、平穏に暮らしていたはずだった。
ある日、姉が嬉しそうに見せてきたものがある。
「見て! これ、帰り道に貰ったの!」
それはどう見ても薄汚れた、恐らく猛禽類の羽根と思われるもの。
「貰ったって……どういうこと?」
「帰り道に、大きな鳥が居たから、少しだけお話して、綺麗ねって褒めたら、くれたの」
このお話とは言うまでもなく、姉が一方的に話しかけたに違いない。ただ、姉の感性ではお話したことになるというだけ。
姉の話を要約すると、仕事帰りの公園で、猛禽類と遭遇し、普通なら無視するだろうところで話しかけ、毛並みについて褒めたら羽根を貰った、ということらしい。
いつものことながら、変わってる。
「いつもお話する鳥さんとは違って、私が褒めてから、尾羽根を抜いてくれたのよ。ちょっと不思議ね」
「……そうなんだ」
いつもお話する鳥さんって何? とか。不思議なのは姉自身じゃない? とか。突っ込みたいのは山々だけど、根本の解決に全く関係ないから、飲み込む。
それに、尾羽根をわざわざ抜いてまで渡してくるのって、妙すぎる。ヤバい雰囲気しかないんだけど。
「それってさ、」
「なぁに?」
ヤバいんじゃいの? とは、言えなかった。姉の、嬉しそうな顔を見ると。
「……いや、良かったね」
「うん! 大切にするんだ」
そっと尾羽根を撫でる様子は、本当に嬉しそうで、野暮なことを言うべきではないと思った。
今にして思えば、これが全ての元凶だったのだろう。
それから姉に会うたび、なんだかぼんやりしていた。
もとからふわふわした人ではあったけど、なんというか。生気が抜けていくような、気配が薄れていくような。
食事の量も減り、存在感がどんどん薄くなっているような気がして、表情すらほぼなくなって。
ただ、あの薄汚れた尾羽根を撫でるときだけ、嬉しそうな顔をする姉は、どう見てもおかしかった。
姉がおかしくなってしまったのはわかるのに、どうおかしいのかが説明できない。
家族に相談しても、今ひとつ通じなくて歯痒かった。
どうしてわかってくれないのか。
このままでは姉は、居なくなってしまうかもしれないのに。
とにかく今まで以上に姉の元へ通い、様子を見ていた。
早くなんとかしないと、と気ばかり急いて、だけど何もできなくて。
別れは突然であり、必然だった。
仕事が慌ただしく、三日ほど姉のところへ行けない日が続いた。
目を離してはいけないのにと思っても、仕事を放り出すわけにもいかず、どうか無事であってと願うしかできなくて。
願いなんて、そんな不確かなもので、繋ぎ止められるわけがなかったのに。
仕事帰り、スマホが震えた。知らない番号からだった。
不審に思いながらも通話してみると、警察からだと名乗られて飛び上がった。
要約すると、姉が三日ほど無断欠勤しており、会社の人が家を訪ねたところ、もぬけの殻だったという。
背筋が凍りつくとは、まさにこのこと。
恐れていたことが、起こってしまったのだ。
姉の家へ駆けつけると、そこは数名の警察官が現場検証をしている様子だった。
鍵は施錠されており、窓は開いていたものの、姉の部屋は十五階建てマンションの六階であり、また大通りに面した窓からの侵入はほぼ不可能であることを説明された。
大きな鳥の影が目撃されていたが、人を連れて行けるような大きさではなかったことも教えられた。
部屋へ通してもらったが、身の回り品や荷物がなくなっている様子はなかった。部屋が荒らされた様子もなく、金品が盗まれている様子もないだろうとのことだった。
まるで、姉だけが忽然と姿を消したような。
そう、姉だけが。
スマホも、鍵も、財布も、服すらそのまま。なんなら、ベッドで寝ていただろうパジャマですら、そのままだった。
物理的にあり得るのだろうか? こんな。
姉が横たわっていただろう形のまま、姉だけが消えてしまったように、くたりとしたパジャマを目にした私は、どう反応すれば良かったのだろう。
すっかり冷たくなっているパジャマに触れて、小さくパリ、と音がしたのに気づく。
まるで何かで湿り、その後乾いたような音。手のひらを見れば、小さな鱗のようなものが付着していた。
鱗? なんで?
不審に思って嗅いでみると、僅かに生臭い。まるで魚が入っていたような。
「どうかしましたか?」
私の様子を見た警察の人が、声をかけてきたので、パジャマの首元に濡れたような跡があること、小さな鱗みたいなものが付着していたことを伝える。
正直に伝えたというのに、警察の人はおかしなものを見るような目で私を一瞥し、鑑識の人を呼んでいた。
私だって、信じられない。だって、こんな。
まるで姉は魚になったみたいだ。そうして消えた。人魚姫じゃあるまいし。
ふと姉が自慢していた、あの薄汚れた羽根を探すも、見当たらない。いつも大切そうに、ベッドボードへ置いていたはずなんだけど。
きらりと、何かが反射して光った。目を惹かれて近寄ると、窓辺にも、小さな鱗みたいなものが落ちていた。
「勝手に触れないでください」
警察の人に注意されて、素直に謝る。姉の部屋だから、ついいつもの癖でうろうろしてしまったが、やめたほうが良いだろう。
窓辺に落ちていたことを伝え、拾った鱗を渡して、部屋を出た。
なんだか現実味がなく、まるで夢みたいだ。むしろ、夢であってほしい。
帰宅し、家族に姉が行方不明になったことを伝えると、騒然となった。当たり前である。人が一人、居なくなったのだから。
祖父がブルブルと震えている。しまった、祖父が居ないところで言うべきだったかも。
「キリフへ連れて行かれた……!!」
顔を覆って泣き出す祖父を、祖母が慰めている。
「?」
連れて行かれたって、祖父は心当たりがあるのだろうか?
「ねぇ、キリフって何?」
祖父に聞いてみるけど、また連れて行かれたと繰り返して、嗚咽を漏らすばかり。
また、というのは、どういうことだろうか。
取り乱す祖父を祖母が慰めながら部屋へ戻っていく。祖母が私へ目配せしたので、おとなしくリビングで待っていると、しばらくすると祖母が戻ってきた。
「何から話せば良いのかしらね……」
そんな一言から始まったのは、祖父の昔話。
要約すると、祖父の姉がその昔、今回の姉と同じように行方不明になり、未だ帰らないこと。そのときも同じように、居なくなる前は様子がおかしかったこと。大きな鳥の影が目撃されたこと。
「きりふと呼ばれる、山神様の住まいへ連れて行かれたと、そう言われているの」
そう締めくくられた祖母の話に、私は笑いを堪えるのに苦労した。
あまりにも類似しすぎた状況。どう考えても、同じ現象だろう。
すなわち、神隠し。
きりふへ連れて行かれた、というのも恐らく、神隠しの別称だと思われる。
なにせ、山神様の住まいへ連れて行かれたのだから。
きっと姉が帰ることはないのだろう。祖父の姉が、そうだったように。
私もいつか、祖父のように泣くことになるかもしれない。そう思うとゾッとした。
姉が行方不明になって、胸にぽっかりと穴が開いたようだ。ずっと心の隙間風が止まない。これはもう、塞がることはないのだろう。
姉が居なくなっても、世界は続く。けれど私の胸には穴が開いたまま。
私の子どもには、孫には、くれぐれも可笑しなものを拾わないように言い含めよう。
とくに猛禽類の羽根は、受け取らないように。
そうでないと、私の姉のように、キリフへ連れて行かれてしまうよと。
妹から見た神隠し