上司の懇願
「自分で良ければ、ムール統括長のパートナーとして、会合に行きます!」
「だ、駄目だ」
「どうしてですか?」
イサの申し出に一旦は驚いた顔をしたジャンだが、すぐさま渋面になると頭を振って拒絶した。それでも詰め寄るイサに、ジャンはぐっと眉間に皺を寄せ、どこか辛そうに薄氷色の瞳を歪める。
「危険過ぎるからだ」
「危険? 会合でどうして……」
「俺のパートナーというだけで理由は十分だ。そんな場所に、君を連れては行けない」
厳しい顔で断固として拒むジャンを、隣のエキディウスは何か言いたげな顔で見つめている。イサは二人に目をやりながら、もう一度ジャンに訴えようとした。
「でもっ」
「―――ああ、それは良いアイデアだね。ビルニッツ君が行ってくれるなら僕も手間が省ける」
けれど思いもよらぬ人物の一声によって、イサの言葉は封じられた。イサとジャン、エキディウスの三人が声の方向に目を向ける。
「ローベニク」
フロアの扉から入ってきたのは白衣姿のローベニクだった。
彼は緑色の長い前髪から覗く黒縁眼鏡のブリッジを指先で少し持ち上げると、レンズの奥の瞳を緩めながら、にこにこと朗らかな笑みを浮かべ三人に歩み寄る。
「ジャンのお相手の手配をせずに済むならそれに越したことはない。会合の話は僕にも知らせが来てるんだ。今回は併合して国内医療関係者の会合も催されるようでね」
「じゃあ行けないのはオレだけかぁ」
ローベニクの説明を聞いたエキディウスが不満げな声を零す。残念がっているというより、子供が拗ねているような言い方に、ローベニクがくすくす面白そうに笑った。
「そういうことになるね。まあ君は前回の会合でやらかしてるから、あちらも呼びたくなかったんだろう」
「だろうなー……。あれ親父にすげーどやされたわ」
「それは仕方ないよ。何しろ王族の胸倉を掴んだのだし。まあ、聞いた時は胸がすいたけどさ。お父上とシュバルドの家名があったからこそ無事で済んだようなものだね」
(王族の胸倉を……!?)
驚くイサを余所に、ローベニクはにこやかにエキディウスを称えた。当の本人は「だろ?」と言いながらにやりと不適に笑っている。
どうやら、エキディウスとローベニクにとって王族とはあまり好ましい人達では無いようだ。
「あれはエキディウスに責任は無い。俺が……俺の、せいで」
二人が和やかに話している隙間に、ぽつりと悲痛に満ちた声が落ちる。目を向ければ、ジャンが俯きがちに唇を噛みしめていた。強い無念感を滲ませた表情をしている。
「やめろジャン。そうやって何でも自分のせいだと思い込むな。オレにも失礼だ」
けれどエキディウスはジャンのその言葉をばさりと切って捨てた。いつも快活な彼には珍しいきつい口調で、顔に怒りを滲ませジャンを見据えている。
「……すまん」
「ったく、オレは好きでやってんだって。いい加減わかれよなー?」
「理解は、している。おい、髪を乱すな」
「あっはっは」
ジャンの謝罪にくしゃりと表情を笑顔に変えたエキディウスが、まるで子供にするようにジャンの頭をわしわし撫でた。それを、ジャンが不満げに睨む。
「あの……」
三人のやりとりを見ていたイサは口を挟むべきか悩んだ末、全員に向けた形で声をかけた。
なんとなく、エキディウスとローベニク、そしてジャンの話しぶりから、ジャンが何らかの形で王族の目の敵のようなものであることを察していた。ユッタから聞いた噂話もあながち間違いではないのかもしれない。しかし、であれば余計に自分がジャンのパートナーとして共に行きたいとイサは思った。
エキディウスではないにしろ、ジャンが嫌な思いをしないように少しでも何かしたかった。
「ああ、すまないねビルニッツ君。とにかく、僕からも君にジャンのパートナーをお願いしたい。一応聞いておくけど、女装に抵抗は無いかい?」
「あ、ありません」
無いと言うのも少々弊害がある気がしたが、元が女なのだから抵抗があるはずもない。
「化粧とかドレスはナターリャさんに頼んだらどうにかしてくれるだろ。あの人元化粧師だし」
エキディウスがにかっと笑い肩を竦めた。二人によって話がスムーズに進んでいく。寮母さんの隠された情報についてはやや驚いたが、本人自体が驚きなので不思議は無い気がした。
だが、エキディウス達の話に異を唱えたのはやはりジャンだ。
「そうは言うがローベニク。俺と一緒では……その、ビルニッツに害が及ぶ可能性が」
ジャンの言葉にローベニクは片側の眉をくんと跳ね上げ、にやりと笑う。
普段医務室で見る彼は柔和な笑顔の絶えないどこかのんびりした人物に思えていたが、その笑い方には少々策士めいた余裕があった。
「おや、本人はそんなこと気にしてなさそうだけど。ね?」
「はい!」
「だが……」
ローベニクに促されたイサは元気よく返事をしてからジャンを見つめた。どうか聞き届けて欲しい、と視線に力を込める。
エキディウスとローベニクの二人を味方につけたのだ。これほど心強いことはない。だがジャンはまだ躊躇っているのか、困惑した表情で行き場無く片手を握ったり開いたりしている。そこを、ローベニクがたたみかけていく。
「考えてみなよジャン。ビルニッツ君はあのオウガスト・ビルニッツの縁者なんだよ? あの家に何かしようなんて人間は早々いない。王子達もそこまで愚かではないさ」
「それは……確かにそう、だが」
(オウガストさんって、そんなに重要な人物なの……?)
ローベニクの口振りによればオウガストはイサが思っていたよりシュトゥールヴァイセン国では名が知れているらしい。本人が自称はしていたもののなにしろあの性格だ。半信半疑だったイサはここにきて漸く信じる気になった。ならばオウガストには悪いが、この名前を使わない手はないだろう。
「ムール統括長、大丈夫です。何かあっても自分でどうにかしますので、心配しないでください」
励まし二割、けれど大半はイサ自身の願いでジャンに必死に訴える。イサとしても、どうしてここまで必死になってしまうのか、実のところなんとなく気付いてしまっていた。
(ムール統括長の力になりたい……それに、知らない女の人がこの人の隣に並ぶのは……考えるだけで胸が痛い)
「……ビルニッツと二人で話をさせてくれるか」
ジャンの申し出にエキディウス、ローベニクが二人顔を見合わせてから頷いた。二人とも、どこか聞き分けのない子供に呆れているような目をしている。それをジャンは気まずそうに受け止めていた。
フロアではすでに他の案内人達が業務開始の準備をし終えているところである。新人であるイサがジャン達に囲まれているのを不思議そうに眺めている者もいて、その中にはユッタもいた。
イサが席に戻ってこないのを気にしているのか、ちらちらとこちらを見ているのがわかった。
「なら会議室にでも行って話して来いよ。今日の開始号令はオレが請け負うからさ」
「恩に着る」
エキディウスが肩を竦めてフロア奥、右片隅にある小会議室を目で差した。時々彼ら役職持ちが使っている場所で、イサは入ったことの無い部屋だ。
(開始号令まで交代するってことは、ムール統括長はあくまで私を連れて行きたく無いんだ……)
イサはジャンが自分を説得しにかかるのだろうと予想した。何しろ普段なら必ずジャンがこなす役割だ。朝礼の後は彼の声によって一斉に案内人達が念話の受信を始めるのだ。
イサはここに来てまだ日が浅いとはいえ、号令をジャンが行わない日を見たことがなかった。だのにエキディウスに任せるということは、どうにかイサを説得したいがためだろう。
(でも……止められても一緒に行きたい。怖くないわけじゃないけど、ムール統括長に、もうあんな顔はして欲しくない)
「ビルニッツ、来てくれ」
「はい……」
イサはジャンに促されるまま渋々会議室へと入った。そんな二人の背をじっと見送っていたエキディウスとローベニクは、すぐさま自分の業務へと戻っていく。
「悪いが扉の鍵を掛けさせてもらう。他の者には聞かせられんからな」
「はい」
会議室に入ってすぐ、ジャンにそう言われイサは頷いた。
彼はイサの了承を得ると会議室の内鍵を掛け、それからイサに向き直るとすぐに真剣な目で口を開く。
「あの二人は君の『事情』を知らない。だからこその今回の提案なわけだが……君の性別が露見する危険性については理解しているか?」
「それ、は」
薄氷色の瞳に静かに見据えられ、イサは何と言って良いかわからず言い淀んだ。
二人の間に距離はほとんどない。
一歩踏み出せばぶつかりそうな至近距離で、ジャンは諭すような口振りでイサに問いかけている。
予想していた言葉を投げられたイサは、しかし弁解が思いつかず目を泳がせた。
小会議室は名前だけあって室内はさほど広くない。中にはやや大きめのテーブルと、椅子が何脚か並んでいる程度だ。だが普段のジャンなら、部下に腰掛けるよう促す程度の気配りを見せただろう。
けれど彼は部屋に入って鍵を掛けるなりすぐに話を切り出した。それほど強い懸念を抱いているのだ。
確かに女人禁制の案内所勤めでありながら、わざわざ女装するなど正気の沙汰ではない。
そのうえで自分から危険に首を突っ込もうとしている。これではジャンに責められても仕方が無いだろう。
「それに、俺と会合に赴くのは君にとってリスクしかない。下手をすれば身の危険すらあるんだ。だが俺は君を守ると約束した。そのような場所に、君を連れて行くことは出来ない」
「ですがエキディウスさんはパートナーがいなければムール統括長が困ると」
咄嗟に話を持ち出したイサにジャンは、すうと咎めるように目を眇めた。
「それは君には関係の無いことだ。パートナーの件についても手配が出来ないわけではない。たんに俺の個人的な問題なだけだ。一人で行くにしてもそれが俺の判断だ。何があろうと甘んじて受ける。君が気にするようなことではない」
「っ……」
そう突き放すように言われて、イサの胸が針を刺されたように強く痛んだ。
一瞬で強固な壁を作られた気がした。それが嫌で、イサは自分でも馬鹿だと思いながら子供のように嫌々と頭を振った。
「関係、無いなんて言わないでください……!」
「ビルニッツ? 一体どうし――」
イサの様子が変わったことにジャンが戸惑いをみせた。イサは顔を俯け、声を絞り出し続ける。
「私、だけですか」
ぽつりと空間に落とすように問うた。じわじわと悲しみがせり上がるのがわかって、イサはぐっと喉元に力を入れる。
「少しは近付いたと思ったのは、私、だけですか……?」
「っ、」
言い終わると同時にジャンを見上げたイサの瞳には涙が溜まっていた。
泣き落としたいわけではない。ただ単に悲しいのだ。ジャンの人生に、イサが関係無いと言われたことが。
たとえ期間は短くとも、イサにとって既にジャンはただの上司ではなく、精神的な拠り所にもなっている。
彼がいるからここで頑張れているのだ。自分を見ていてくれる人が、ジャンだからこそ。
「最初、ムール統括長は私の性別がわかった時も否定せずにいてくれました。今までの仕事ぶりの方を『私』として見てくれた。本当に嬉しかったんです」
「それは……君が実際に業務に忠実で誠実だったからで」
涙ながらに言い募るイサを前に、ジャンが戸惑いつつも答えた。その言葉に、イサは瞳を潤ませながらゆっくりと首を振る。
「私が元いた世界では……仕事に対して忠実でも誠実でも、正当に評価されることは稀でした。だから始めてだったんです。自分がやってきたことを、他人に認めてもらえたのは。それだけじゃないんです、職場で始めて尊敬する人に出会えて、その人が認めてくれたっていう達成感とか、幸福感を感じたのだって、私、初めてで。……仕事なんて所詮、生きるための手段やお金を稼ぐためでしかないって、思ってたんです。だけど違った。ムール統括長は、仕事を通して『私自身』をちゃんと見てくれた」
全く知らない世界で、唯一事情を知っていたオウガストと離れ、たった一人で案内所に入ったイサにとっては、ジャンが仕事を正当に評価したことはイサ自身ですら予想していなかったほど心に響いた。
性別も何も関係無く、ジャンはイサを『ただのイサ』として存在を認めてくれたのだ。
元の世界では見つけられなかった自分の居場所というものを、あの時あの瞬間に、イサはこの異世界で見つけた気がした。
あれがなければ、たとえ良い仲間に恵まれていたとしてもいつかは心が折れていたかもしれない。
それはきっとオウガストが約束してくれた期間よりずっと早く訪れていただろう。
自分はあくまで部外者でしかなく、かといって帰れなければこの世界に骨を埋めるしか無いのだという強烈な不安は、二つの世界に対するイサの底の知れない恐怖でもあった。
だけどジャンはイサを認めたうえで、イサの孤独を慮ってくれた。
「頑張ったな」と言ってくれた。
自分を頼って良いとまで言ってくれた。
嬉しいなんて言葉では言い表せないほどの衝撃だったのだ。きっとイサはあの時のことを生涯忘れないだろう。
「……この世界に来て不安だったこととか、全部、報われた気がして……救われた気がして。ムール統括長のおかげなんです。貴方がここに居てくれたから、私はこうして、ここで生きていられるんです。ムール統括長がいるから。だから……少しでも、何か恩返しがしたくて」
瞳に溜まった涙を瞬きで散らしながら、イサは精一杯の言葉でジャンに感謝を伝えた。
「ムール統括長に出会えたこと、本当に感謝しているんです」
そう言って、イサはジャンに微笑んで見せた。それを愕然とした表情で見下ろしていたジャンの―――表情が、ぐっと何かに耐えるようなものに変わる。
まるで感極まったのを、どうにか堪えているような表情だった。
(え……)
「君は、どうして……」
「ムール統括長?」
ジャンがぽつりと言葉を落とす。イサは薄氷色の綺麗な瞳が、今にも溶け出してしまうのではないかと思った。透き通った氷が、まるで春の雪解けのように溶解していくみたいに。
イサは無意識に指先を伸ばしていた。流れ落ちるだろう氷の雫を拭おうとしたのだ。けれど、その手をジャンにするりと取られる―――と同時に、身体も包まれた。
(えっ!?)
気付いた時には、イサの顔はジャンの肩口に埋まっていた。
「どうして君はそうやって……いや、きっと君は気付いていないのだろう。君の言葉に、君の行動に、どれだけ俺が救われているか……俺に恩など感じる必要はない。俺はそれ以上のものをイサ・カブラギ、君から与えられている」
身体に回る長い両腕がぎゅうと強く、けれど苦しくはない程度に優しくイサの身体を抱きしめる。
イサは自分の両手をどうすれば良いのか迷った。思考が混乱しているせいもある。羞恥もある。けれども抱きしめ返してしまうときっと―――ここからすべてが変わってしまう気がした。
「だからこそ……君を会合に連れて行きたくないんだ……嫌なんだ。君を、傷付けられたくない……」
イサの耳元に響く声が喜びから次第に弱々しい怯えを含んだものに変わっていった。そこにはありありとした痛みが滲んでいる。酷い恐怖を抱えているようだった。
抱擁が強くなり、イサは咄嗟にそっとジャンの背に指先を添えた。
「君の気持ちは嬉しいんだ。本当に、たとえようが無いほどに嬉しい……だが、それ以上に、君を傷付けられるかもしれないと思うと……俺の頭がおかしくなりそうなんだ」
まるで喉の奥から絞り出したような、ジャンとは思えない気弱な声だった。
「【奴ら】は俺の傍に居るというだけで君を傷つけようとするだろう。それどころか、尊厳も何もかも踏みにじり、あまつさえ命まで狙うかもしれない。オウガストの家名がある程度は守りになるだろうが、それでも絶対とは言えない。本当に危険なんだ、イサ」
「ムール統括長……」
「来ないと言ってくれ。俺はもう、俺のせいで誰かが傷つくのを見たくない……何よりイサ、君が傷付くのだけは嫌だ」
耳元で静かにそう告げられた。
懇願にも聞こえるそれを、イサは黙って聞いていた。背中に回ったジャンの腕が震えている。
出張案内の時、巨大な魔物すら圧倒してみせた強さを持つジャンがここまで恐れる理由は何なのか。
イサには考えてもわからないが、以前ジャンが「自分のせいだ」と言っていたことと関係しているだろうことは察せられた。だからイサは今度こそ、ジャンの広い背中を自分の両腕で抱き締め返した。
ただ一心に、ジャンを安心させたいという思いだった。
「頼む……イサ」
ジャンの懇願をイサは静かに聞いていた。そして自分よりも大きな身体が震えているのを宥めるように、できうる限りの力で強く、抱きしめていた。




