帰還までのタイムリミット
「おはようございまーす!」
「っ……おは、よう」
(う……)
朝、案内所フロアで元気よく挨拶したところ、振り向いたジャンと目が合った。
瞬間、顔が燃えるように熱くなった気がして、イサは思わず顔を俯けた。
(駄目だ恥ずかしい……!)
内心で悶えながら、エキディウスと話しているジャンにぺこりと頭を下げて足早に横を通り過ぎた。
視線は朝日の差す床に向いている。顔を上げたらそれこそ顔面が羞恥で爆発しそうで、上げるに上げられなかった。
それはさておき、ジャンの横を通り過ぎた時、背中にやたらと強い視線を感じた気がした。たぶんジャンだろう。わかっていて、イサは知らない振りでやり過ごした。挙動不審なイサの態度が不服なのかもしれない。けれど許して欲しい。どうしたって意識してしまうのだ。
(うう情けない……あれからもう何日も経ってるのに……)
自分のデスクに鞄を下ろしたイサは大きく溜息を吐いた。
ユッタのせいでイサの部屋のシャワーが壊れてから一週間。
魔石によるシャワー設備は翌日には綺麗に直っていたし、管理職用の浴場を使わせてもらったのはあの一回きりだ。
しかし、その一回きりが忘れられないものになったのは言うまでもない。
(あの日から、ムール統括長の顔がまともに見られない……!)
風呂で倒れたイサを介抱してくれたジャンから、寝ている時に口付けてしまったと言われた時は流石に驚いた。
だがそれは一時の気の迷いだろうとイサは結論づけている。
何しろジャンのような美形ならば女性など選り取り見取りなはずだ。それらしいことをユッタからも聞いていた。
今回のは、たまたま案内所ただ一人の女であるイサが目の前にいた、というだけに過ぎない。
けれど、ただでさえ好意的に見ていた上司からそんな事をされたと知ったイサが内心平気でいられるかと聞かれればそうではない。
意識するなというのは無理な話だ。
それに当事者であるジャン自身もあれから少し様子がおかしいのだ。何というか、よく目が合うし、視線を感じるし、そのほかにも色々ある。
(念話中に何かあればすぐに来てくれるし……偶に真後ろに居る時だってあるし……何より話しかけられる回数が格段と増えた気が……)
おそらく彼は部下に不埒なことをしてしまった気まずさゆえにイサを気に掛けているのだろう。
だが明らかに以前とは違うイサとジャンの距離感を、周りは不思議がっているようだ。
「ふああ……おっはよーイサ。なあ、今日もムール統括長がお前のこと見てないか?」
出勤してきたユッタが眠そうに欠伸を噛み殺しながらジャンを横目に言った。イサは「きたか」と思いつつ極力表情を変えないよう注意しながらユッタの方を向く。
「ユッタおはよ。いや、気のせいじゃないかな。っていうかどしたのその顔。すごく眠そうだけど。確か昨日休みだったよね?」
どかりと椅子に座り込んで、背もたれに深く身体を預けたユッタはかなり眠そうに目を擦っている。どうやら昨夜はあまり寝ていないらしい。それにかこつけて、イサは話題を逸らすことにした。
「どこか出掛けてたの?」
「それがさぁ聞いてくれよ~~~っ!」
イサが尋ねると、ユッタは聞かれるのを待っていたとばかりにやや座った目でずいっとイサの方に顔を突き出した。
「う、うん」
ユッタの勢いに気圧されたイサが仰け反る。普段ならユッタとイサの席間には別の同僚がいるのだが、今日は研修のため別のデスクに座っていて不在だ。なので間を隔てるものが無い。
(これは……今日一日ユッタの話に付き合う羽目になりそう……まあいいけど)
そう思いながら苦笑していると、どこか遠くでバキ、と何かが壊れる音が聞こえた気がした。しかし、目の前のユッタが怒濤の勢いで話し始めたので気を取られる。
「昨日な、おれ休みだったから街に行ってきたんだよ! けど来週から月食期に入るじゃん? もう街もお祭り状態になっててさ。屋台も沢山出てたんだよ。したら弟や妹が、おれのこと財布がわりにしやがんの! あいつらに引っ張り回されたおかげで、結局門限ギリギリまで帰れないし、しかも財布はすっからかん! んっとに散々な目にあったんだよ……!!」
「あはは。楽しめたみたいでよかったじゃん」
大袈裟に嘆くユッタをイサは軽くいなした。彼はシュトゥールヴァイセン案内所からほど近い大きな街に実家があり、休みになると時々家へ帰ることにしている。上に兄が二人、他に弟と妹が一人ずついるらしく、五人兄弟だと以前食堂で聞かされた。
ユッタの人懐っこさと、誰とでも打ち解けられるコミュ力の高さは、弟や妹の面倒を見てきたせいもあるのだろう。
「楽しかったのはそうなんだけどさぁ。これじゃあガキどもに食い潰されに行ったようなもんだよ。特に妹なんて「お兄ちゃんお願い♪」って言えば何でも叶えてくれると思ってんだから!」
ユッタが両手で顔を押さえておいおいと泣き真似をする。財布は寂しくなったようだが、彼自身はなんだかんだで嬉しそうな様子に、イサは微笑ましさで笑顔になった。
「ユッタに甘えてるんだよ。可愛いじゃん」
「可愛いのは可愛いけど、年々あざとくなってる気がする……おれは妹が末恐ろしいぜ……!」
がくり、とデスクに突っ伏して苦笑するユッタにイサがくすくす笑うと、ユッタは「他人事だと思ってんなー?」とおどけてみせた。それに、イサはゆるゆると首を振る。
「ううん、ユッタは偉いなって思って。ちゃんと家族サービスしてるんだね」
感心するイサに、ユッタは金色の髪を片手でくしゃりと掴んでやや照れくさそうに笑った。
「まあなー……おれんとこは兄弟多いからさ、親父もおふくろも生活するのに手一杯で、あんまり好きなものとか、買ってくれなんて言えないもんだから、おれくらいは叶えてやらなきゃなって思って」
ユッタは実家に仕送りをしているらしい。そう他の先輩案内人が話していた。軽そうに見えて友人や家族を大事にするユッタは案内所内でもムードメーカー的存在で、その理由はイサにもよくわかる気がした。
「良いお兄ちゃんじゃん」
「へへっ……もっと褒めてくれていいぜ!」
「はいはい、すぐ調子に乗るんだから」
「へへへ」
イサが褒めると、ユッタが嬉しそうに青い目を細めた。シャワーの事など時々困ったことをやらかすユッタではあるが、イサにとって彼はとても良い友人だ。この世界に来て良かったことは、上司はもちろん同僚にも恵まれたことだろうとイサは思った。
「ん、あれ? そういや、イサの家族の話ってあんまり聞いたことないな?」
「あー……」
そんな風に思っていると、ふと思い出したようにユッタが言った。少しまずい方へ話が向いたことに、イサは苦笑して言葉を濁す。
昨夜ジャンにすら始めて兄がいることを明かしたが、ここに来てからイサは個人的な話を周囲には明かしていない。いずれ自分がいなくなることを考えてのことでもあるし、一応はオウガストの親戚筋ということになっているので、あまり話してボロが出てもいけないと思ったからだ。
「兄弟いるのかとかすら聞いてない気が……なんだよぉ水臭いなー」
不服を滲ませるユッタにイサは空笑いで返すほかない。
「いや……聞いたところで別に面白くも何とも無いよ……?」
イサが濁すと、ユッタは「ふうん」と言いながらじっとこちらを見つめ、それから軽く肩を竦めて口元を緩めた。
「ま、無理に聞いたりしないけどさ。けどイサって、話しかけたら普通に愛想良いのに、時々妙に淡泊な時があるよな」
「そうかな」
「おれはもっとお前と仲良くなりてぇんだよお。一緒に新人研修の荒波を越えてきた同期じゃねーか。街に遊びに行ったりもしようぜー? お前誘っても全然来ないじゃん!」
身体を左右に揺らしながら、拗ねたように冗談めかしてユッタが言う。それをこそばゆく感じたイサは、笑いをかみ殺せずに吹き出した。
「んー、じゃあユッタがシャワー壊したり遅刻しなくなったら、考えておくよ」
「それ出すの酷くね……?」
「あはは」
たわいない軽口を同僚と言い合えるのは楽しいし、嬉しい。けれどイサはこれ以上ユッタやこの世界の人と深く付き合おうとは思っていなかった。そうしてしまえば、帰る時にきっと辛くなるからだ。
オウガストが魔力を回復させ、イサを元の世界に返すまでに必要な時間は一年と三ヶ月だと言っていた。しかし、すでに三ヶ月を過ぎ四ヶ月目に入ろうとしている。
思いがけずジャンとは関わりが深くなってしまったが、イサは元の世界で見た漫画やアニメの主人公のように異世界で生きていきたいとは考えていない。元の世界ですべきことがあるからだ。
(お兄ちゃん、かぁ……)
ユッタの話を聞いたせいだろうか。
イサは元の世界にいるたった一人の家族のことを思い出した。
きっと今頃はとても心配しているはずだ。出来ることなら無事だと一言知らせたいけれど、オウガストに難しいと言われてしまった手前どうしようもなく、申し訳なく思いながらこうして日々を過ごしている。
イサがユッタの妹のような可愛らしい妹であったかと聞かれれば絶対に違うと否定する。
けれど、兄妹間の関係はそれほど悪く無かったように思う。そもそもイサは兄に大きな借りがあった。簡単に言ってしまえばイサが大学に進学した時の学費だ。
イサが中学生の頃に両親が事故で亡くなり、その後は当時高校生だった兄が進学を諦めて就職しイサを育ててくれた。自分はいけなかった大学にイサを通わせ、進学費用も全部払ってくれたのだ。
その恩を返すためにイサは多少ブラックな仕事にも耐えていた。
元の世界に戻ったら兄が払ってくれた進学費用をすべて返しきりたいと思っている。兄にそんなつもりが無いことも、おそらく断られるだろうこともわかっているが、結婚間近な彼女がいるのを知っているのでご祝儀として渡す気でいた。
(でも、これじゃあ返すのはまだ先になりそうだなぁ……)
この世界の時間の流れと、元の世界でのそれが同じかどうかは不明なので、帰還後の生活がどうなるかはイサにもまだわからない。
もしも同じだけ時間が流れていた場合はイサは行方不明扱いとなっているだろう。おそらく会社は解雇されている。アパートの家賃だって、ある程度口座に余裕は持ってはいたものの、流石に一年も過ぎれば滞納で強制退去だろう。
最悪の場合、帰還後は再就職からのスタートになるかもしれないと思うと、正直気が重かった。
(こっちで稼いだお金を向こうに持って行けたら良いけど、そもそも貨幣の種類が違うし、換金とかも難しそうだし……)
「イサー? 聞いてるかー?」
「あ、ごめんユッタ聞いてなかった」
「ひでえ」
ぼんやり考え事をしていたイサはまだユッタが話し続けていることを忘れていた。ほとんど聞き流してしまったが、ユッタの顔を見るに怒ってはいないらしい。そんなイサに、ユッタが眉尻を下げる。
「何かお前、時々すごく遠くを見てる時あるよな。なんていうか……ま、いいや。ってかマジな話さ、また今度イサも一緒に街、行こうぜ。他の奴も誘ってさ!」
ユッタは何かを言いかけたけれど、途中で話題を変えた。彼が言わんとしていることにイサは気付いたけれど、気付かない振りで軽く頷く。
「うん。ありがと。楽しみにしとく」
「よし! 決まりな!」
もう何度目かになるユッタの誘いを、イサはありがたく受け取ることにした。申し訳ない気持ちもあったし、断っても誘い続けてくれるユッタに根負けしたのもある。それに何より、あの念話呪い騒ぎで一番にジャンを呼んでくれたユッタに感謝の気持ちがあったからだ。
「さーて、今日も頑張りますか!」
始業開始の合図にユッタが気合いを入れてヘッドセットを装着した。イサもそれに倣い、頭に馴染んできたヘッドセットを付けて待機状態に入る。
そうしながら、こうしてジャンやユッタとの関わりが増えていくことに対して漠然とした不安を抱えていた。
(帰る時、寂しくなるかもしれないな……)
仲良くなれば、きっと帰るのが辛くなる。だって帰ってしまえばイサは二度と彼らに会えないのだ。文字通り世界が違うから。
だけどイサには帰らねばならない理由がある。元の世界で、やらねければいけないことが。
だからユッタとこんな風に軽口を叩き合えなくなっても、ジャンと会えなくなったとしても帰らなければ―――そう考えた時、薄氷色の双眼がイサの頭に浮かび、目が合った。
急激に胸が締め付けられる。痛みに一瞬、イサの喉が詰まった。
(っ……何で)
もう一年もすればジャンに二度と会えなくなるのだと考えた瞬間、心が酷く痛んだことに、イサは強く動揺しながら朝の業務を開始した。




