イサの孤独
「かえりたい、帰りたいよ……兄ちゃんごめん……心配、かけて……ごめんね……」
そう言ってイサが流した涙の雫はまるで真珠のように美しく、ジャンは思わず食い入るように見つめてしまった。
そして同時に、胸がぎゅうと引き絞られるような、苦しいほどの切なさに襲われる。
「ビルニッツ……」
続く言葉を告げられずに、イサを起こすことも出来ずに、ジャンは伏せられた黒い睫毛を凝視した。
イサは眠ったまま泣き続けている。ぽろぽろと大粒の涙が彼女の頬に流れていた。
それをジャンの指が優しく拭う。けれど涙は止まらない。ジャンは胸の痛みに思わず顔を顰めた。
強い後悔に襲われていた。なぜもっと早く気付いてやれなかったのだろうと、己の不甲斐なさにぎりりと歯噛みする。慣れない世界で、それも男ばかりの場所で女がたった一人きり、どれほどの孤独や恐怖に耐えてきたのだろう。性別がバレないようどれほど苦心したことだろうか。帰れない世界への郷愁を募らせ、けれど誰にも吐き出せずに彼女は部屋で一人こうして泣いていたのか。
そう考えれば過去の自分を殴りたくなった。
イサは職場ではいつも笑顔だ。よく同僚とも楽しそうに話しているし、彼女が居る場所はいつも明るい。だから周りの人間もイサを助けようとするのだろう。
今日ユッタがイサが危ないかもしれないと慌ててジャンのところに内線をかけてきたのを思い出す。
けれどイサのその頑張りと笑顔の裏には、誰にも、ジャンにも知らない孤独があった。それを彼女は誰にも悟らせなかったのだ。「あの時」まで。
その孤独な頑張りを、とてもいじらしいと思う。そしてとても愛しいと、ジャンは思う。
眠りながら涙を流すイサを、彼女を悲しませるすべてから守ってやりたい。悲しませたくないしずっと笑顔でいて欲しい。ジャンは心底そう思った。
けれど。
けれどイサの「帰りたい」という望みは、出来れば聞きたくなかったかもしれない。
ジャンはまるで何かに引き寄せられたかのように、無意識に彼女の目元に唇で触れた。
「泣くな……イサ」
優しく声をかけながら、ジャンはイサの目に浮かぶ涙を唇で吸い取った。そして、彼女の髪を左の手のひらでそっと梳いてやる。そうしながら、ジャンの唇はイサの目元から頬へ、頬から下へと降りていき―――やがてイサの柔い唇に触れた。
眠るイサの上にジャンが覆いかぶさり、彼の銀の髪がさらりと椅子へ流れ落ちていく。
「俺がいる……俺が、君の……そばに」
だから、どうか。
続く言葉をジャンは口にはしなかった。ただ、触れるだけの口付けを繰り返した。イサの瞳は閉じたままだ。柔らかく穏やかな寝息だけが繰り返されている。濡れた髪にほんのりと赤く色づいた白い肌が艶めかしく、ジャンは口付けの合間に何度もイサの眠る姿を見つめた。
まるでこの世界にある唯一の宝物を見つけたかのような心地だった。
まだ誰にも知られていない、ジャンだけが知っている美しく、可愛らしい綺麗なモノ。
ジャンにはイサがそう見える。
口付けは数秒続いた後、ゆっくりとジャンが顔を離して終わりを告げた。
氷色の瞳にはありありと驚愕が浮かんでいた。
「お、俺は―――なにを」
意識のない部下に何という不埒な真似をしてしまったのか。酷い自己嫌悪でジャンは顔面蒼白になった。震える指先で口元を押さえ、被害者である部下を見下ろす。
イサは涙の後を残したまま眠っていた。ゆるく上下する胸元にジャンの目が吸い寄せられていく。この期に及んでぶわりと全身の体温が上昇し、ジャンは己の欲が際限なく湧き上がってくることに戦慄した。
イサの白い喉に喰らいつきたい衝動に駆られる。
もしこのまま。イサを自分のものにしてしまえたら。
彼女を、元の世界に帰さないためには―――?
自制を促す自分とは別の、不穏な思考がジャンの頭をもたげた。
「っ―――」
しかし、ぐっと眉を顰めて衝動を諌めると、ジャンはじりじりと追い詰められたように後退した。
眠るイサから距離を取った彼は、くるりと踵を返すと、そのまま浴場に直行し服のまま頭から冷たい水を被った。
何度も何度も水を被り続け、ジャンは上がった体温を無心で下げた。
イサの孤独に、彼女の意識がない今の状況にかこつけて無体な真似を働いた己を恥じながら。
ジャンの身体が冷え切り、ようやくイサのところに戻った時、ちょうど彼女が目を覚ましたので―――ジャンはその場で、土下座した。




