魔石シャワー大事件・その後
「ビルニッツ、大丈夫かっ」
遠くでジャンの焦る声が聞こえた。なんとか思考を纏めたイサは朦朧としながら首を上に向け、口を動かした。
「の、のぼせ、まし、た……」
「良かった。意識はあるようだな。どうだ、自分で立てるか?」
イサの返事にジャンがほっと安堵する気配がした。何か聞かれた気がしたが、それよりもイサは先に言いたかったことを言葉にする。
「ん……ムールとうかつちょぉ……」
「何だ」
「しごと、褒めてくれ、嬉しかった、れす……」
へらりと笑いながら気持ちを口にする。頬と肩が何か固いものに当たっているがやけに安心するのはなぜだろうか。それに、ジャンの声がとても間近に聞こえた。
「俺は事実を言ったまでだ」
「それでも、すごく、嬉しかっ……」
そこまで言って、イサは今度こそくたりと倒れ込んでしまった。華奢な身体がジャンの胸元からずり下がるように落ちていく。それを咄嗟にジャンがイサの身体を抱きしめて風呂に沈まないように止めた。
しかし、その瞬間ジャンは固まってしまった。氷色の瞳は大きく見開かれ、全身が硬直している。
白い湯気が立ち上る中、冷静沈着と言われる男の喉がごくりと音を立てた。はく、と無意識に開いた唇から短い息が漏れていく。
ジャンのほどよく筋肉のついた胸に、イサの柔らかい膨らみが当たっていた。
目を瞑るイサの頬に濡れた黒髪が張り付いている。ジャンのこめかみから一筋流れていったのは湯か、それとも汗だろうか。
ジャンの全身がみるみるうちに赤みを帯びていく様はきっと、エキディウスが見ていたら指を差して笑っただろう。
それくらい、ジャンの顔色は気の毒なほど真っ赤に染まっていた。
「こ、れは不可抗力……不可抗力……」
念仏のように言い訳を唱えながら、ジャンがイサの身体をゆっくりと動かした。横抱きにして運ぶため彼女の向きを変えているのだ。そしてもちろん、今のイサは裸である。
ジャンは仰向けにしたイサをそのまま両腕で抱き上げ、湯船から立ち上がった。
ざば、という水音と共にイサの湯で隠されていた裸体がすべて顕になる。氷色の瞳が、白い肌に吸い寄せられていく。
「……綺麗……だ……」
ぽつりと、ジャンの口から称賛が溢れた。その陶然とした声は無論イサには聞こえていない。
意識の無いイサを大事そうに抱えながら、ジャンは湯船から上がり足音も立てずに脱衣所へと戻っていく。
瞳を閉じたイサを見つめる彼の表情が、どれだけ甘く蕩けていたのかを知らぬまま。
***
ジャンはイサを脱衣所へ運ぶと、籐で出来た長椅子の上に寝かせた。
本人に悪いとは思ったが、ジャンが持ってきていた夜着を身体に掛けてある。流石にイサの下着等に手を出す勇気は無かったからだ。
ジャン自身は元々着ていた服を身につけた。
イサが持ってきていた着替えは彼女が寝ている長椅子の横に籠ごと移動させた。
エキディウスがイサの服に気が付かなかったのは、彼女が脱衣所の一番隅に籠を押しやっていたからだろう。忘れ物か何かと勘違いしたのかもしれない。おかげで命拾いしたが。
ジャンにとってエキディウスは友人だし信用もしている。けれど彼は昔から少々女性に対しだらしない部分があった。先ほどの発言も含めジャンはエキディウスにイサの性別を明かすつもりは無かった。
何より本人の了解も得ていない。
当のイサにはすでに熱冷ましの術をかけてある。
しかし湯船に長く浸かったせいか依然深い眠りに落ちたままだ。
そんな彼女を、長椅子の横にある木椅子に腰掛けたジャンが見下ろしている。
ジャンの薄い唇が開いた。
「……君は真面目で、目に嘘が無い。努力していたのを知っている。それに今は、別の世界から来たことも。独りで孤独だったろう。気づいてやれなくて、悪かった」
言って、ジャンがそうっとイサの頭を撫でた。女は嫌いな男だが、不思議とイサに対して嫌悪感は感じない。
部下として接してきたからというのもあるだろうが、元々イサが持つ実直さに人としての好感を抱いていたからなのだろう。
「それにしてもイサ……君は一体何なんだ……?」
ぽつりと、ジャンの心の底の言葉が漏れた。
その純粋な疑問は真っ直ぐイサに向けられている。
「俺を庇った部下は君だけだった。それに、俺のせいじゃないと言ってくれたのも……なぜ、君は……」
出張案内に行って、部下を庇ったことはあれど庇われたのはイサが初めてだったことを、ジャンはまだ彼女に言えていない。
案内所の責任者である以上、ジャンが部下を守るのは当然だ。盾になることすら厭わない。そもそも自分は『その為』だけにここにいる。
なのにイサはジャンを庇おうとした。身を挺して。ただでさえ別の世界から来たというのに、ジャンはイサにとっては単なる上司で仕事以外では大して思い入れもない人間だっただろうに。
そう考えていたのに―――上司として尊敬していると言ってくれた時、何より庇おうとしてくれた時、ジャンがどれほどの喜びに震えていたか、イサは知らないだろう。
たとえ理由を知らなくとも、「ジャンのせいではない」と言ってくれたあの言葉が、どれほどジャンを救ったかなんて。
「イサ……」
もうどれだけ心の内で、声で呼んだか知れない名をジャンは呼ぶ。本人には言えないし言ってはならないが、最近のジャンは無意識にイサを呼んでいた。自覚したのは少し前。
朝目覚めた時、自然と口がイサ、と口走った時に気が付いた。自分でも何が起こったのか一瞬わからなかったほどだ。
しかし、思えば最初からイサは不思議なところがあった。女と見まごうほどの華奢さに驚いたのは今となっては納得だが、女性であるならばジャンは本来無意識に嫌悪感を抱いていたはずだったのだ。それには己の過去が強く関係しているけれど、イサには全くと言って良いほどそれを感じなかった。どころか、辿々しくも真摯な姿勢が好ましいとすら思っていた。
そして実際、女性であると知ってからは―――ジャンの中で、イサは特別な存在になっている。
守らなければ、という上司としての使命感もあるが、それより何より、人として、男としてもイサを守りたいと思ってしまう。だってイサは、ジャンに思いもよらなかったものをくれた初めての異性なのだ。
「……イサ」
ジャンはイサの名を呼びながら、彼女の頬を指先でそっと撫でた。こんな風に部下に触れてはならないとわかっている。彼女が慕っているのはあくまで上司であるジャンなのだとわかっている。けれど、触れずにはいられなかった。
女性に自分からこうして触れるのも、ジャンによっては初めての経験なのだ。
あの時、知らなかったとはいえイサに触れたことを後から気付いた時も衝撃だった。
ジャンは次に、するりと黒い髪を撫でた。細く柔らかい髪だ。まるでイサのようだと思った。
「……にい、ちゃん……」
流石にここまでにしようとジャンがイサの頭から手を離そうとした時、するりとその手を取られて彼の身体がびくりと跳ねた。
ジャンはイサを見た。閉じられた瞼と穏やかな寝顔に眠っていることを確かめる。
どうやら寝言のようだ。
兄がいるのか、と心の内で得たばかりのイサの情報を復唱する。それにしては甘えるのが下手だと思った。もっと人を頼れば良いのに、彼女は自分だけで頑張りすぎるきらいがある。
「兄ちゃ、……」
そんな風に思っていると、寝ぼけているのかイサがジャンの手をぎゅうと強く握りしめてきた。
「ビルニッツ、俺は君の兄では……」
やんわりイサの手を外そうとしたジャンだったが、彼女の閉じた目元に光る雫を見つけて、動きを止めた。
「かえりたい、帰りたいよ……兄ちゃんごめん……心配、かけて……ごめんね……」
イサの頬に、涙が一筋流れていくのを見て、ジャンの動きが止まった。




