「公爵」
公爵――この場合で言うと、クシュリカへ接近し、接触し、邂逅した男を指す。その男性は名前も明かさず、その上クシュリカが人知れず、人知れぬように振る舞いながら、体を鍛えていたこと。そして、微塵しか存在せぬ魔力でも扱える魔法を探求していたこと。その全てが、魔王を倒すためでもあり自国の民を守るためであると知っていた男は、とある提案をした。
いや、半ば強制的に誘い出した。
誘い始めた。
「僕の元で修行しないか」との問いに、クシュリカは自分の気持ちがそのまま薄っぺらいオブラートに包んで、慎ましやかに断ろうという意識を持たず、拒絶の反応を示したことに驚きながら、しかして、それを撤回することはなかった。
というより、すること自体考えなかった。
そもそも、断るつもりであったなら例え出た言葉が公爵へ向けた最低なものであったとしても、それはそれで仕方ないのだ。今更撤回してしまう方がよろしくない。それこそ、前言撤回する方が良くないのだ。繕うくらいなら、言い切ってしまった方がいい。
サバサバ系女子を目指しているわけでもないが、結果として意思を伝えるなら直球が一番効果的で、シンプルで、強力で、印象へ刻まれやすい。
ただ、そうして成功していれば苦労はしないだろう。苦労どころか。
困難な目に遭わないだろう。
困難な目に合わないだろう。
実際、図書館を連れ出されたクシュリカは、公爵が泊まっている宿舎にきていたのだ。
この国が、領土が保有している外からやってきた公爵に泊まってもらうための別荘。大きな建築物を公爵専用の宿にしてしまうほど、裕福さをアピールしている産物。その庭に連れてこられたクシュリカは、嫌がりながらも親へ歯医者に連れてこられたような不機嫌な顔をして、睨みつける。
「断ったはずですが」
「おや、断っているならここまで連れてこられる態度はしていないと思ったはずだけど。すんなり引っ張られた君にも非はあると思うよ」
「それは……公爵様が無理やり引っ張ったからで……。それに、公爵様に手を出せば私は極刑でしょう」
「その通り。だから、すんなり付いてきてくれて良かったよ。教える相手が死刑になってしまうなんて僕は嫌だからね」
この男は……。
そんなジト目で公爵を睨みつける。訝しむくらいなら、極刑にはならない。精々、公爵の気分が悪くなるくらいで、そんなの謝れば済む話だ。
なにより、この公爵がここまでしておきながら、睨みつけただけで機嫌が悪くなるなんてありえない。むしろ、気分を害することさえ滅多にないだろう。ここまで本人の筋書き通りに進んでいるのだから、たかだか不満げな態度をされた程度で、歪む精神を持っていれば公爵の立場に席を置いていないだろう。
そして、それを象徴するかのように握っていた手を離すと、彼は近くに植えられたそこそこの年月を年輪に刻んでいる樹木へと近づく。
何をするつもりなのか。
何が目的か。
理由は簡単で、単純明快で、故にクシュリカの気分をより一層のどん底へと落とす。
公爵は、自身の髪の毛が地面につかないよう配慮しながら、転がっている木刀を手にする。
不躾に切り取られ、無骨な手入れをされているその茶褐色は、様々な傷跡がついている年季を感じる品物である。
かなりの使用頻度に。かなりの打ち合いをしたこと。それを刻んでいることが明白なそれを公爵は、軽々しく持ち直すと、クシュリカへ問いかける。
「君は武器を使うタイプかい?」
「試合をすること前提で聞くのは勘弁してください。公爵様を傷つけたとあっては、ハイム家の名誉はきっと無くなるでしょう」
「公爵の僕が試合を望んでいるのに、それを断る方が沽券に関わるんじゃないかい? なにより、僕に勝てないのなら魔王だけじゃない。魔人にだって勝てない。
無駄死にするだけだよ」
「…………」
クシュリカにもプライドはある。
それこそ、衛兵と戯れのように戦っていることだって、発端は彼らがクシュリカの修行を偶然目にして、馬鹿にしてきたからである。
いや、馬鹿にしたというより。プライドを傷つけてきたのだ。本人達にとっては、衛兵らしい発言であり時代背景を明らかにするようなもので。しっかりとした自分達の役割を理解している者たちであったが、クシュリカはそうでなかっただけ。
彼らを統べるだけの才能はなかっただけ。
器もなかっただけ。
「クシュリカ様。私達がお守りします。どうか、危ないことはお控えください」
これが、彼女の怒りを沸き立たせるには充分で。「じゃあ、貴方達が私より強ければ、辞めましょう。そうでなければ、私の勝手を見逃しなさい」
と言って、文字通りボコボコにしたのだ。
だからこそ、クシュリカは戸惑っている。
あの時――衛兵から心配された時は、家のことより自分自身のプライドを優先しても問題ないと思っていた。相手は衛兵だし、自分よりも立場は低い者達だ。彼らの言い分よりも、クシュリカの言い訳の方が通る。
しかし、今回は違う。
相手は他の領土の公爵である。
自分より立場も、権力も上だ。
ともなれば、従うべきか。はたまた拒絶するべきか。どちらがクシュリカにとって良く、家自体の名誉を維持できるのか。そのことを考えれば、クシュリカの悩みは最もであり、必然でもあった。
彼女だって好き勝手している自覚はある。父親にほとほと呆れられていてもなお続けるだけの、自分勝手さは自認している。故に、そろそろ親孝行とはいかなくとも、こんな自分を許してくれている父親に何か恩を返さねばいけないだろう、と。
ともすれば、公爵からの誘いを断ること。
これはクシュリカにとってよろしくはない。家にとってよろしくない。
公爵との縁ができる――それが修行相手ということは伏せるべきだろうが――それは大変魅力的で、魅惑的。
名乗らぬ公爵ではあれど、正体不明ではあれど、役職明確であるなら、逃さぬ手は無い。
そう、素直に考えられれば、クシュリカは唸ってなどいない。
「で、どうだい? やるか、やらないか。戦いの場だったらこんなこと問い掛けてくれないよ」
――あいつらは傲慢で、独善的なんだから。
公爵の目が、一瞬だけ光を失う。しかし、瞬きをしてしまうと戻ってしまうほど、あっけない時間。
それを見逃さなかったクシュリカは、ある種の確信を得る。拾い上げる。
公爵は、魔人と関わったことがある。
それだけじゃない。
やるか、やらないか。戦いの場だったら、こんなこと問い掛けてくれない。とまで言った。
とすれば、公爵は魔人と戦ったことがあるのだ。
多対一か。一対一かはさておき。その裏付けが垣間見えたとあれば、クシュリカのプライドは大きく揺らぐ。
実戦経験が一切なく、空想上の魔人ばかりを相手にしているだけのドン・キホーテに、歴戦の騎士がついたようなものだ。正真正銘の、実体をもった騎士道物語の登場人物。ともすれば、何がなんでも教えを乞う必要さえ出てくる。
だが……父親のことがある。
お見合い相手を見繕ってきては、その誰もがクシュリカの拒絶――ないしは、逃亡によって破談となっているのを見てきた父の姿が、クシュリカの脳裏に過ぎれば、悩むのも仕方ない――
「べそかいても、謝りませんからね」
――クシュリカは、快い返事をしたのであった。