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太陽がサバンナの空に昇っている。私は決して仕事熱心な男という訳ではなかった。その時私は、ライオン追跡用に改造されたジープの車内で、すやすやと昼寝をしていた。とても気持ちよかった。そうだ。老人と海ではないが、私の夢にはライオンが出てきた。一頭の、白いライオンだ。ライオンはたてがみが見事だった。もしこれが夢でなかったら、私は相当興奮したに違いない。
ゴールドスミス! 私の肩を叩いて、私を起こすものがいる。その叩き方は次第に乱暴になり、最終的には殴るような調子を帯びてきた。助手席に座っているハーディングだ。もっと優しく起こしてはくれないものか。彼女にはほとほと閉口する。だが彼女が言った言葉で、私はすぐさま飛び上がった。キリンよ……白いやつ。アルビノの……。なんだって? 双眼鏡を取ると、私は前方に驚くべきものを見た。白銀に輝く二頭のキリンだ。おい、ハーディング……ありゃすごいぞ。私は言った。記録は取ってるか? ええ、今取ってる。ハーディングが言った。カメラを回して。警戒させないようにね。
だが、白いキリンはゆっくりと私たちから離れて行った。こちらにどうやら気付いたようだった。神々しいそのキリンは、私たちにはまるで神の使いのように見えた。サバンナに訪れた、キリンの姿をした白い聖者だ。私たちはそのキリンをキリストと名付け、その後を追った。私もハーディングも相当そのキリンにいかれていた。しかし、そのキリンを追っていたのは私たちだけではなかったのだ。
キリストが殺されたのは、偶然にも金曜のことだった。キリストは磔刑に処せられたわけでもなく、サバンナに潜む密猟者によって殺された。殺されたキリストの剥がれた皮が、無残にもその場には転がっていた。それは白さを、神々しさを、失っているように見えた。残念ね。ハーディングが言った。こんなことになるなんて……。キリストは殺しちゃいけなかった。私は言った。いや、このキリンは殺されちゃいけなかったんだ。ハーディングが頷きながらも言った。でも連中が、こんな風にこのキリンを殺さなくちゃならないように仕向けているのは、私たちなのよ。
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川沿いのけもの道をひたすら歩く若いチーターは、すばらしい幸運に感謝することになった。ハイエナの群れが獲物にあり付いている所に、彼はばったりと出くわしたからだ。ようし! 彼はそう言うようだった。狩りは不得意な若いチーターだが、ぶん取りの方には少々自信があった。肉に喰らいつくハイエナたちを猛然と追い払うと、チーターはさっとそれをひと睨みしてから、死肉をいそいそと運んでいった。
ハイエナから奪い取ったスプリングホックの肉は、結構な分残っていた。若いチーターが辺りを見渡してもみても、もうその動物はいなかった。おそらく群れは逃げてしまったのだろう。若いチーターはここぞというところに、スプリングホックの屍肉をドンと置くと、さっそく食事を取り始めた。誰にも遠慮することはない。若いチーターはその肉にむしゃぶりついた。美味い! 若いチーターはそう言うようだった。ハゲワシが、上空を旋回しおこぼれを狙っている。やがて彼らは下りてくると、若いチーターと共に肉を食らい始めた。彼らもまた勢いよく、がつがつと肉を喰らった。
それから若いチーターは空腹を満たすと、そこから離れた。胃袋で消化されたスプリングホックの肉が、彼の足取りに力強さを与えていた。彼はどしどしと進んだ。そして数キロ行ったところで、大きなフンをした。私はそれを嗅いだことがある。堪らなく臭い、そして雑菌だらけのフンだ。彼が三キロほど進むと、若いチーターの目の前に骨と皮が転がっていた。薄汚れた白い皮。それは変わり果てたキリストの姿だった。若いチーターはその時、前をハッとなって見た。親のむくろを弔うように眺めている、一頭の子キリンが、そこから少し離れた所にぽつんと一人で立っていた。彼の毛並みもまた、白く、銀のように輝いていた。あの白いキリンの子どもだろう。そして若いチーターは、白銀の子キリンを追っただろうか? いや。彼は満腹だったのか、そのキリンを見逃したのだ。
それから白い子キリンは、平原へと静かに消えて行った。
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カミルの父とカミルの母は近所付き合いが上手だ。顔を突き合わせ、何やら思案気なやり取りを彼らはかわす。言葉は人間だけのものではないという。彼らの存する社会には、人間と同じ、いや、それ以上の苦しみ、そして愛というものが横たわっているのだと、私は信じている。そしてそれこそが、私がこの文章を書くきっかけとなったといってよい。彼らの生を、それから死を、言葉で語ることが出来たらそれこそ幸いというものだ。
彼らが何をお喋りしているのか、私は知りたく思う。機械によってそれを翻訳することも、現代の科学的な力をもってすれば、不可能ではないだろうが、それでは実に味気ない。私は生の言葉を聞きたいと思う。生きた彼らの言葉を。
ヒヒのアーメドがシマウマたちに予言を伝える。お前たちを狙っているものがいる。シマウマたちは虫の居所が悪いのか、それに耳を貸そうとはしない。馬耳東風というやつだ。まさにどこ吹く風。彼らは草を食みながら、行進を続ける。そんなシマウマたちを狙うものは途切れなかった。草むらに身を潜めて、狩りの機会をじっと狙っているのはメスライオンの群れだ。あの親のメスライオンが捨てた、オスライオンの群れに属する彼女たちは、チームプレーもさることながら狩りがじつに巧みだった。一頭が飛び出し、シマウマの群れを恐慌に導く。シマウマたちはアーメドの予言に耳を貸さなかったことを後悔しただろうか? おそらくしなかっただろう。動物には、そんな計画性のある生き方は出来ないのだ。もっとも予言を耳に入れる事に計画性があるのかどうか、と言えば、それはあるのだろう。古代の我々もまた、こうして予言を重宝してきた。
そこを隠れている仲間が襲撃する。アーメドの叫びが草原を響かす。打ち捨てられた予言者の発する、耳をつんざくばかりの絶叫だ。シマウマの群れの混乱は、それで最高潮に達する。あるものは逃げ、あるものは掴まって殺された。メスライオンの群れは、子どもと年寄りに絞って狙った。だが餌食となったのは成人のシマウマだった。彼らの奇襲に逃げ遅れたシマウマが一頭捕まり、彼らに屠られた。
メスライオンの群れにとって、この狩りは大成功だ。
しかし、カミルの母シマウマが正にその餌食だった。観測し続けてきたシマウマが殺され、私はどこか胸にぽっかりと穴が開いたような気持になった。キリストが死んだ時でさえ、このような気持ちにはならなかったというのに。ゴールドスミス。ハーディングが言った。悲しいわね。そうよね。ハーディングは爪の垢を取りながらそう言った。汚らしいが、ここでは何でもすぐ汚れてしまう。爪などは特に。狩りは大成功だ。私は言った。いかにも興奮している様子で。嘘つかなくてもいいのよ。ハーディングは言った。悲しいなら、悲しいっていえばいいじゃない。私は双眼鏡をかぶった。自分がタフではないと、思われたくなかったからだ――実際はその通りだったのだが。
その時だ。メスライオンの群れの前に、珍しいライオンが現れた。あの母ライオン――彼女だ。彼女は戦いたがっているわけでも獲物を横取りする気もないようだったが、メスライオンの群れは、彼女に敵意を抱いているように見えた。それは私が見ていても、随分おかしなことだった。これは制裁だろうか? 彼女たちは何らかの戦わなければならない理由を抱えているが、私はそれを人間のエゴを通してみているのではないだろうか? しかし彼女たちは争いを避けなかった。これはどう考えても不毛なことのように思えた。それから母ライオンは先手を打った。五頭対一頭だ。だが勝ち目はない。おそらく彼女たちが仲間だった時代に、何らかのしこりがあったのだろうと私は推測する。戦闘は突発的だった。母ライオンの肌に血が流れる。母親はその一撃で懲りたようだった。なぜ彼女がいきなり攻撃的になったのかについては、私とハーディングの研究を要するところだ。ハーディングはこの光景を興味深く見ていた。ライオンも嫉妬するのね……。うん。ハーディングは言った。興味深い、面白いわ。ノートしといて。OK。私は紙に書き付けた。母ライオンは逃げた。私たちはそれも見ていた。ハーディングが、追う? と私に聞いた。もちろんだ。私は答えた。
メスライオンの群れは一頭も彼女を追おうとしなかった。
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若いチーターは格好のおもちゃを見つけた。餌になるかもしれないと、くいしん坊な気を起こし、その丸いのに噛みついた。すると皮は鱗のようなものに覆われていて、丸い身体は更に丸まり、彼には手も足も出ない。仕方がないので若いチーターは、前足でその謎の生き物を転がしたり、ひっかいたりしてみる。だが、その丸い生き物には、どうやっても、傷一つつかなかった。
キリンの腐肉にハエがたかり、フンコロガシがしばらくしてやって来ると、フンを転がし始めた。それは、もしかしたら若いチーターのフンであるかもしれない。そうでないかもしれない。とにかくフンはいくらでもそこらに転がっているのだ。ここでは皆がフンをし、フンになる。
そこへあの、白い子キリンの姿が見えた。親同様、神秘的な魅力は健在だった。これではいつ密猟団に殺されるか――あるいは他の肉食動物に狩られるか――わかったものじゃない。この神々しいばかりの白さは、このキリンにとって生まれながらの不幸だった。彼はこの皮があるがゆえに、多くの敵から狙われることとなった。何より、彼の親はそれで死んだのだ。そしてその形見の皮はその場に転がっていた。薄汚れて。今ではゴミのようだ。その場に放置されている。彼は白い皮の上にとどまった。そして息子の白いキリンはその場所に少し滞在すると、直ぐに離れて行った。まるで何かを決意したかのように。
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水がなくなった。雨がふらず、日照りの日が続いたためだ。サバンナは乾燥し、動物たちは乾きに苦しんだ。動物たちは、それでもしばらくは平気だろう、という顔だった。柔和な動物たちの顔からは、今現在、自分たちが置かれている状況への緊迫感というものが、皆無だった。当然だった。動物たちはその事を肌でしか理解していない。体内の水分は、すぐに干上がった。それが尽きると、彼らは必死となった。生命は水で出来ている。水がない、というのは我々でさえ死活問題となる。国と国が争わねばならぬほど。
やがて一頭ずつシマウマが倒れて行った。草を食んでいる内には、まだ生き残るすべもあった。だがサバンナの草原は、干上がった大勢のシマウマを抱えきれるほど肥沃でなかった。彼らの群れは移動に伴い、どんどん縮小し、仲間の屍を荒野に散らして行った。これは最初の渇きという訳ではなかった。年長者のシマウマは、かつて似たような事態に遭遇したことが二度ならずあった。その度に群れには死者が出、それはそして毎年のことだった。自分が今生きていることも、彼らは奇跡だというかもしれない。老衰で死ぬことは、シマウマたちにとって奇跡のようなものだ。
死したシマウマはハゲワシの餌食となる。カミルの父は自分もハゲワシだったらよかったのに、と想像を逞しくしたかもしれない。ハゲワシたちは、ここぞとばかりに胃袋を満たして行った。このサバンナの掃除人は、死神だった。死にゆく群れに付きまとい、死んでいく彼らを次々に頬張って行った。上空を徘徊し、その目は常に、今まさに死ぬものを見つけようとしている。
厳しい行群は続いた。彼は、南へ、南へ、と歩いて行った。彼らは知っているだろうか?その向かう先にあるのが、南アフリカ共和国だということを。そのため私とハーディングは、国境を越える準備を始めなくてはならなかった。
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若いライオンは、土を必死に掘り始めた。掘った先から、水が出ればいいという、一縷の望みをかけて。出なければ、ぼくは死ぬ。若いライオンは決死で、正にそう言っているようだった。
彼は掘りつづけた。彼には人間以上のガッツがあった。その一方であの母ライオンもまた、乾きに苦しんでいた。仲間にやられた傷口は乾き、痛ましい惨状を呈している。私はこの二頭をずっと追っていたが、おそらくどちらかが今回の乾きで死ぬだろうと予測していた。そして亡くなったのは、母ライオンの方だった。渇きに彼女は耐えられなかったのだ。私は観測している動物が無くなるたび、気力が失せ、ガックリとした気持ちになる。もっとタフでありたい。私は思う。ヘミングウェイなら、ライオンと戦うだろう。だが私は私なのだ。マンデラ大統領の壁画の近くにある一室で、私たちは次のプランを練っていた。子どもにブブゼラを買ってって言われてるの。ハーディングが言った。雨がふらない事には何も始まらない。私は言った。しかしここまできたら――。その時だった。雨よ! ハーディングが言った。窓の外を見て!
私たちはそれからジープに乗り込み、シマウマたちを発信機で追った。干上がった河に、池に、水量が戻っていくのがこの目でハッキリとわかる。
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水生動物と魚と水辺の鳥たちが歓喜の声を上げ、あらたに出現した水辺には、その水を求めてきた動物たちの姿が見られた。
皆、乾いていたのだ。そして潤っていく。忽ち河川は生き物で溢れかえった。私は、じつを言えば、自分のことが好きではない。私は自分が嫌な男だというそれだけの理由で、半年に一度は自らを消し去りたいという衝動に襲われる。そんな情けない私だが、今この瞬間――沈んだ陽が草原を明るく照らし、鳥と虫たちの音が調和するこの時――私はとても充実し、生きていたいと少しは思う。そしてそれをジープに持ち帰り、執筆しているこの瞬間にも、やはり私は幸せだ。文筆とはこうであってほしいものだとさえ私は思う。もし神がいるのなら、この美しい光景を私は見せたいものだ。