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サバンナに朝陽が昇り、親のメスライオンは目を覚ました。そして再び狩りが始まった。彼女はもう親ライオンではない。しかしだが、おそらく子を産むことは無いだろう。群れからはぐれて生きる彼女には、オスのライオンとの出会いというものが用意されていないのだ。彼女が子を持たないライオンとなったのは、今からわずか数時間前の出来事だ。あの子ライオンは、彼女が目を離したすきに彼女の元を離れて行った。彼女は息子が離れた匂いにも気がつかなかった。これは彼女のしくじりだったと言っていい。しかしそれは、結果的にはよいことだった。
子ライオンははぐれたシマウマを見つけ、草むらに潜んだ。そして、狩りは成功した。やったぞ! 彼は嬉しそうだった。子ライオンは殺したシマウマをくわえ――それもやはり子のシマウマだった――親元へと戻った。ひょっとしたら褒めてもらえるかもと期待したのかもしれない。しかし――馬鹿者!――親ライオンは彼を攻撃した。ライオンの男子が必ず通る道だった。子ライオンは悲しみに満ちた目で親ライオンを見た。しかしもう、親子の縁は切れてしまっているのだ。証人は屍体となったシマウマとそれに群がる蝿――そして辺りの灌木だった。子ライオンは、彼らに恥じない行いを見せなければならない。さよなら母さん。子ライオンはそう言うようだった。
子ライオンは何度も振り返り、親のメスライオンに振り向かせようとした。だが、親のメスライオンは息子から奪った獲物を食べるので忙しかった。ひょっとしたら、という思いが、親ライオンの中でふと沸き上がった。この子はまだ弱いかもしれない。誰かに殺されるかもしれない。いや、きっと殺されるわ。彼女はそう思っているようだった。
しかし親ライオンは別れた子を見ようともしない。子ライオンは、とぼとぼと、その場を去っていく。その後ろ姿はとても哀しげだった。私は彼を抱きしめてやりたい衝動にかられた。しかし手出しは出来なかった。
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シマウマのサリーたちは河にいた。そこにはわずかに草が生えていたので、彼らは食事の休息をとることが出来た。しかし腹いっぱいとはいかないし、ワニのいるその場所は彼らシマウマたちにとっては危険極まりない地帯でもあった。それでも草を食み、水を腹いっぱい飲んでいる時には、シマウマたちは長閑な気持ちになるものだった。彼らの近くではワニが水から顔をのぞかせ、こちらをじっと見ているが、この距離ならまだ危険はなさそうだ。シマウマたちは、時に挑発に見える行為を繰り返し、もさもさと草を食んだ。この分ではこの川べりの草もいつかなくなりそうだった。
若いシマウマのカミルが、サリーの前に躍り込んで来た。そばには母馬も一緒だ。つい半年ほど前に生まれたばかりのこのカミルは、まだこの世のことなど何も知らなかった。ただカミルも、群れや母馬の庇護の外では何か危険な世界が存在するという事を、薄ぼんやりと、いやハッキリと感じ取っていた。だが若くても、カミルには野生の本能が備わっていた。それは生まれながらに習得するものだった。室内で生まれた動物には決してない第六感が、彼らには備わっている。
空腹の、あの若いチーターが河向うにやって来て、シマウマの群れを眺めた。だが、しまった、と彼はそう思っているようだった。河が邪魔をして、シマウマの群れに近づくことができないからだ。仕方なくこちら側の岸に若いチーターは獲物を探した。だがこちらにいるのは、骨に群がる猛禽類か、あるいはカバか。鳥がぱくついている骨には、もうほぼ肉は残っていない。多くのくちばしに齧り取られ、何の動物であったかさえ、今では判別しがたくなっている。
その時、ワニが頭をさっと深く沈め、水中にさっと身を隠した。水面に不気味なさざ波を立てながら、ワニは河の中をそっと移動していく。殺し屋の気配に、その場の誰もが気を払わなかった。ひょっとすると水中で、ワニは勝利を確信したかもしれない。数秒後、ワニは川面に勢いよく顔を突き出すと、カミルを襲った。カミルはワニの牙から逃げようとしたが、駄目だった。河に血が流れ、ひと時の恐慌が訪れた。
少しその場から離れていたアーメドが、その光景を見ると、大きく呻いて、危険を皆に伝えた。シマウマの群れは――サリーはカミルを助けたそうな顔をしていたが(もし彼に出来るならそうしていたかもしれない)、水辺からさっと上がり、アフリカの濁った、カミルが襲われた辺りの河が、その子シマウマの血で赤く染まった。ワニに加えられたカミルは、びくびくと痙攣しながら、二三度悶えて、そのまま水の中に引きずり込まれていった。カミルは死に、ワニの食事となることが決まったのだ。ワニにとってこれは大成功だった。非難される覚えはどこにもない。こうしてサバンナの生命は巡っていくのだ。いつかは自分も死に、誰かの食事となり、その誰かも死に、その誰かもまた誰かのえさとなるのだ。彼らがこぼしたフンは蝿の食い物となり、草原の草木を潤すだろう。そして人間はこの輪を駄目にしてしまう、この星の病だ。
我々人間には、二種類しかいない。まだいくらかの野生が残っている人種と、頭の中まで電子化されてしまった人間の二つだ。
若いチーターはあっけに取られて、それを見ていた。しかしそれも一時のことだった。直ぐに気を取り直すと、彼らは水飲みに集中した。次の獲物のことを考えた。恐慌はすぐに過ぎ去り、再び辺りには、静けさと平穏が戻った。まるで殺されたものなど、どこにもいないもののようだった。が、カミルの親のシマウマのみが、静かな悲しみに包まれていた。このシマウマたちが深く悲しんでいることは見れば、一目瞭然だった。彼らは辺りのシマウマとは違い、もう草を食む気力がない。子どもを失ったショックで、えさがのどを通らないのだった。母馬は子シマウマが血を流し、無残に死んでいく姿を見た。そして――何もしてやれなかった! 彼女はそう訴えるようだった。
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カミルの母が幼い時。彼女のその親のシマウマは、この母馬を、身を挺して肉食動物から守ったことがあった。しかこの母馬は今回それが――間に合わなかった――。カミルの父のシマウマが慰めるように、草を食むことを勧めるようだった。カミルの母のシマウマは草を食んだ。だが草を食んでも味がしなかった。いくら食んでも、何も感じない。だが、野生のシマウマはそう簡単には挫けない。子どもなどまた作ればいい。いくらでも産める。また、同じように育てればいい。それは我々人間と相いれないところだが、我々もかつては同じように持っていて、そしていつしか失ったものだ。カミルの母は前を見た。そして群れのリーダーが指し示す方角へ従った。
サリーは進んだ。仲間が殺されたというのに、彼はのんきなものだった。彼の足元にはヒヒのアーメドが付き従い、二人は仲良く行群した。シマウマの群れはどこまでも続いて行き、その後方から我々のサファリ・トラックが追った。ふと、アーメドはそこに何かを見つけたらしく、シマウマの群れからいったん離れると、しばらく戻ってこなかった。アーメドが戻って来たとき、ヒヒの顔には傷があった。サリーは驚いたかもしれない。彼の右目が、何者かの爪で血だらけにされていたからだ。
サリーはしかし、それを気にそぶりも見せなかった。群れの先頭に歩いて行くと、そこにいたシマウマのメスに彼は求愛した。求愛の鳴き声を発し、サリーは少しずつ、その距離を近づいて行った。がメスのシマウマは、何か気に障ったことでもあったのか、ブルル! とひと鳴きするとサリーから。離れて行った。
どうやら彼女は嫌がっていた。右目を失ったアーメドが傍で笑っている――余裕はなさそうだった。今の彼はひたすら痛そうだ。右目を失って悲痛の叫びをあげ続けている。かなり興奮もしているようだ。ちなみに、そんなアーメドも独り者だった。メスヒヒにこれまで何度かアタックした経験はあるが、どれも玉砕に終わった。アーメドは懲りないオスだ。彼は年相応になるという事を知らない。いつだってこの季節には、性欲に取りつかれた獣のように(事実獣なのだが)なってしまう。しかしアーメドはめげなかった。花嫁候補のヒヒは何頭だっているのだ。アーメドは、今日も手あたり次第声をかけてみる気だった。
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若いチーターは恐れしらずだ。なんとさっきのワニの一瞬の隙をついて、獲物を奪った! 当然のことながら、ワニが怒る。獲物は――さっきワニが殺したカミルは――千切れて、若いチーターには腿の少しだけが残った。ワニの怒りはそれだけでは収まらなかった、若いチーターを殺そうと、さっと水中から身を乗り出すと、口を大きく開け、突進し、チーターを襲った。おおっと! チーターはそう叫んだに違いない。チーターはすんでのところでワニの攻撃を躱した。だが彼に残ったのはほんのわずかな肉片だけだ。それから、殺されそうになった若いチーターは、水辺から離れた所へ捕えた獲物をもっていくと、その小さなもも肉をむしゃむしゃやりながら、奴らを追わなきゃな、と考えているようだった。
彼は生きている。本気で生きるという事は死と隣り合わせだからだ。