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白銀  作者: 中川 篤
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 もう大丈夫よ。メスライオンは息子に言い聞かせた。サバンナの動物たちが集まるこの水飲み場は、彼らのオアシスだった。ここでは動物たちは一時停戦(ていせん)を申し合わせ、静かに水を飲むことになっている。だがそんなルールをお構いなしにするものも中にはいた。彼らは水を飲んでゆったりしている動物たちの首根っこを目掛け、この瞬間にも飛び掛かる準備をしている。この安全地帯にはいつも緊張感があった。その緊張を忘れ、サバンナの陽気にうつつを抜かしたものは誰かの餌食(えじき)になる定めだった。ハイエナどももライオンたちも、ここでは水を静かに飲んでいる。しかしすべての動物が腹を満たしているという訳ではない。彼らはいつだって飢えているのだ。


 辺りに散らばるハイエナどもをメスライオンは追っ払った。もうこれで目障りな連中はいなくなったわ。親は子に言うようだった。さあ、水をお飲みなさい。子ライオンは腹を満たしていたが、直ぐにおなかが空くことは確実だった。自分たちを遠巻きにしているガゼルの一頭でも仕留められたら、それに越したことはない。


 彼らは移動した。ひっそりと、息を殺して。




 どこからともなく動物の声が響いた。大型の――それも肉食の――生物(せいぶつ)の発する声だ。シマウマのサリーは声のする方向にすばやく鼻を利かせた。ヒヒのアーメドも目をその声のする方へと向けた。二頭は助け合って生きているのだ。お互いが、お互いの不足を(おぎな)いあうように、肉食獣の脅威から身を守っている。


 シマウマのサリーが敏感に相手の位置を()ぎ取った。若いチーターだ。まだ遠くにいるが、こちらの様子を伺っていて、狩りのチャンスをいまかいまかと狙っているのが二頭にはよくわかった。アーメドが飛ぶような足取りでその場から離れ、サリーも少し遠くにいる自分の群れの中へと逃げ込んだ。

 

 シマウマの群れは五十頭ほど。サリーはその中でも若かった。キイイー! ヒヒのアーメドが叫び声を上げた。ヒヒはシマウマの群れと共に行動をすることがある。若いチーターがシマウマたちの群れへ突進していった。このヒヒは、それを鳴き声で伝えようとした。


 そしてヒヒのアーメドは安全な草むらの中から、事の成り行きを見守った。彼もまた興奮している。シマウマのサリーたちは辺りの草原へ四散して行った。サリーは幸運にも逃げるのが早かったシマウマだった。若いチーターはシマウマの群れの中でも、一番の老いぼれに突進すると、白熱した狩りを見せた。老いぼれは懸命(けんめい)に逃げ――走っては小回りし、を繰り返し――逃げおおせるかと思ったが、腹をすかせたチーターの前ではそれも無益(むえき)な試みだった。やがて致命的な一撃を喉に喰らうと、その老シマウマは息絶えた。

 

 チーターが獲物を引きずっていく姿を見て、シマウマのサリーはほっと胸をなでおろした。とそこへヒヒのアーメドがやって来て、シマウマの群れはまた草を食み始めた。


 それから、彼らは遊び始めた。アーメドが高く鳴くとそれをサリーが追い始めるというような不思議な行動を、二頭はしばらくの間、取り続けた。人間と同じように、彼らは遊んでいるのだった。遊びに(ふけ)り終え、それが飽きると、二頭はその辺の草むらにゴロンとなって寝ころんだ。それは彼らにとって、この上なく気持ちよかった。



 若いチーターの予感は的中した。メスライオンだ。今さっき狩ったシマウマの老いぼれを、奪いに来たに違いない。ライオンは群れでやって来た。周囲にはハゲワシが旋回(せんかい)し、一つ離れたところからは、ジャッカルたちが様子を伺っている。――戦うか? 若いチーターが思案している間にも、ライオンの群れは、挑発的な威嚇を行ってきた。そしてその距離を段々と狭め、挑発的になって行った。チーターは威嚇(いかく)のための唸り声を発し、どうにか彼らを追いやろうとするが、駄目だった。チーターはただ、獲物の上にへばり付いて、ちょっかいを出してきたら追っ払う――そんなことぐらいしかできなかった。日は空にあり、ぎらぎらと照っている。チーターは激しく水が欲しい。

 

 二時間はそれから粘ったが、遂にチーターはライオンに屈服した。あきらめて水場へと去って行った。陽がじりじりと、彼の毛並みを灼き付ける。シマウマの群れは去っていた。しかし今、シマウマが草原に現れても、彼は追いかける気力を持たなかっただろう。ひもじかった。次獲物を取り損ねたら、死ぬしかない。


 若いチーターはその日初めて、サバンナの厳しい(おきて)(さら)された。自然の洗礼を浴びたのだ。



 親ライオンは、草むらに身を潜め、ガゼルに飛び掛かった。待ちなさい! 親ライオンはそう言うようにガゼルを追った。ガゼルは逃げた。彼女は結局追いつけなかった。――残念なことに、彼女の夫は狩りを手伝ってくれない。女に食わせてもらってのうのうとしているオスなのだ。夫は彼女の他にも五頭のメスと交際を結んでいた。そして彼女たち全てと子どもを持った。メスライオンたちはその事について文句(もんく)は一切発しない。オスライオンは、メスたちが捕まえた獲物を彼女たちより先に喰った。それは当然の権利とでも言うように、そうするのだった。

 

 メスライオンは、狩りに出かけた。その傍にはオスライオンはいなかった。彼女は一頭で子どもを育てることに決めたのだ。メスが群れから離れることは、それなりの厳しい掟に晒されることでもあった。一頭の息子を連れ、彼女はサバンナに旅立った。


 これは、と彼女はハッとなった。足跡(そくせき)を見つけたのだ。子どもを草むらに隠すと、メスライオンはその足跡の臭いを嗅いで、こっそり後を付け始めた。この臭いには何かがある。彼女はそれを感じ取った。それは本来自然がすぐに覆い隠して、彼女たちには見えなくしてしまうもの。神秘だった。メスライオンは長い距離歩き続け、ようやっとその匂いのもとにたどり着いた。それは白銀に輝く一頭のキリンだった。


 メスライオンはその神々しく輝くキリンを見た。何と素晴らしい。彼女はそう言うようだ。しかしこれは狩ってはならないもののような気が、メスライオンにはした。だがメスライオンは飢え始めていた。彼女はキリンを襲った。キリンは逃げもせず、メスライオンに立ち向かうと、その白い美しい足で彼女に蹴りをお見舞いした。メスライオンは後悔した。キリンなど、本来たった一頭で仕留められるものではないのだ。白いキリンは立ち去って行った。


 メスライオンは息子の元へ戻った。もしや他の動物に襲われているのでは、と思うと、彼女の足は自然と速くなった。あの子は……あの子は! しかし子どもは無事だった。だがここで襲われていることだってあるのだ。そして、無残な死に方を遂げた子どもを――同族も、他の種族も――メスライオンは見すぎる程見てきた。そんな苦労を知らずか、息子は無邪気に食物を求めてきた。それに応えられないのが、とても残念だった。坊や、遊びなさい。彼女は息子にそう言うようだった。




 若いチーターは食べ物を求めてサバンナを彷徨った。空腹が、若いチーターの歩む速度を一層早めた。彼らはそうして常に腹を空かせ、食物を求めて、サバンナを行く。それに死ぬまで終わりというものはない。この若いチーターはまだ老いというものを知らなかった。老いたチーターはその老練さで狩りを成功に導く。しかし老いたチーターは、若いチーターに、死ぬことで席を譲る運命なのだ。


 この若いチーターは、まだそんな老いとは無縁だった。シマウマたちはサバンナを移動しているようだった。あいつらに追いつかねば。若いチーターは自らにそう言い聞かせるようだった。




 メスライオンは狩りに出かけた。ここで待ってるのよ。彼女はそう言うようだ。さっきと同じ草むらで、息子は地ネズミを相手に狩りの練習をしている。ネズミは前足でひっかかれたかと思うと、すぐに釈放され、また攻撃を加えられ、かなり痛めつけられていた。地ネズミは肌が切れ、肉がむき出しになっている個所もあるが、まだ逃げようという気概(きがい)を捨ててはいなかった。地ネズミは全身ボロボロになりながらも、この残酷な子ライオンの手から脱走した。しかし長くは生きられないだろう。


 親のメスライオンは、またそこから少し離れた草むらの中からガゼルの群れをその目で捕らえた。そして駆けだす。今度は仕留められた! しかしそこへ意地悪な連中がたかって来る。別のメスライオンの群れだ。そいつをよこしなよ。メスライオンの群れはまさにそう言うようだった。親のメスライオンは仕留めたガゼルにしっかりとへばり付き、彼らと戦闘の身構えを取る。よこせったら! 群れの一頭が口火を切った。そして続けざまに攻撃が始まった。何度も、何度も、彼らは入れ替わり立ち代わり、彼女が仕留めた獲物を奪おうとしてくる。血が流れ、ガゼルが奪われる。そうなるともう彼女には権利はない。取り戻そうとするガッツが失われてしまうのだ。悔しい。親のメスライオンはそう言うようだった。そしてとぼとぼと帰途に就く。


 仮の()に戻ると子どもの姿がない。草むらで彼の姿が見えないのか――いいや違う。ここにいるべき息子の姿が、どこにも見えないのだ。草むらの影になっていないか、近くに彼はいないか、メスライオンは執拗に確認してみたが、いない!


 親のメスライオンはその場を離れ、急いで子どもを探した。不吉な予感がした。どうしても不吉な予感しかしなかった。掃除屋のハゲワシが上空をぐるぐると旋回している。これはまずい! 息子やあい! 一体どこにいるんだい! メスライオンはそう叫んでいるようだった。そして屍骸(しがい)が転がっていた。ハイエナが群がっている。まさか! メスライオンは駆け、そいつらを追い払った。一匹残らず殺す勢いで。そして動物の(しかばね)と直面した――だが、それは息子ではなかった。子ライオンでなかった。


 そして――いた! あんな所に! 親のメスライオンはすぐさま唸った。保護してくれるもののいない一匹の子どもほど、ここでは危険な状態はないのだ。それはたとえ一瞬であっても、サバンナの動物には命取りとなる。殺し屋はそこらにうようよいる。いつそれらと出くわすか、知れたものではないのだから。親のメスライオンは子どもと再会した。それはほんの短い時間の出来事だった。



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