3.
週を跨いだ月曜から、各部活動の体験入部、仮入部期間がスタートした。二週に渡って設けられたこの期間のうちに、新一年生はさまざまな部活動を見て回り、入部するクラブを決定する。
放課後になると、煌我が琉聖のもとを訪れて「さぁ一緒にバレー部へ!」と強引に腕を引っ張っていこうとした。予想どおりの展開だった。
予想できれば、手は打てる。その日は囲碁部を見に行くと言ったクラスメイトを盾にして、煌我の猛攻を振りきった。「明日は絶対来いよ、バレー部!」と叫ぶ煌我の声を背中越しに聞きながら、こうした駆け引きがうまくなったのはバレーのせいだなと思った。皮肉な話だ。
明日からもこのままうまくかわし続ければいい。そう楽観視していたのだが、唯一の誤算は煌我が思ったよりバカではなかったことだ。
翌日の放課後、煌我はふたりの男子生徒を引き連れて琉聖のもとへとやってきた。どこかで見たことのある顔だと思ったら、現役バレー部員である上級生たちだった。
「きみかぁ、中学ナンバーワンの凄腕セッターっていうのは」
入学式の時にビラを押しつけてきた長身の先輩が、席に座ったままの琉聖に嬉しそうな顔を向けた。
「全国大会ねぇ」
もうひとりの眼鏡の先輩も、興味深そうに琉聖を見る。
「そういうのって漫画の主人公が目指す場所だと思ってたけど、まさかこんな身近に経験者がいたなんてね」
だよなぁ、と長身の先輩が相づちを打った。値踏みするような二つの視線に戸惑いつつ、琉聖は無言で頭を下げた。
「そういうわけで」
どういうわけだか、煌我は言った。
「今日こそ一緒に来てもらうぞ、琉聖。先輩たちにもおまえのすごさを知ってもらいたいんだ」
「だから俺はすごくなんかないって」
琉聖は椅子を鳴らして立ち上がった。
「誰を連れてこようが答えは同じだ。俺はバレーをやるつもりはない」
ぴしゃりと煌我に言い放ってから、琉聖は先輩ふたりへ視線を移す。
「ビラ、見ました。人数足りてないんですよね?」
先輩たちは互いに顔を見合わせて肩をすくめる。彼らが本気で部の存続を願っているらしいことはわかった。
「わざわざここまで来てもらって申し訳ないですけど、俺、もうバレーはやるつもりないんで」
がんばってください、と言って、琉聖はそそくさと荷物をまとめ始めた。が、すぐに長身の先輩が「まぁまぁ」と言いながら琉聖の腕を掴んできた。
「とりあえずさ、話だけでも聞いてよ」
「嫌です」
「あれ、意外と頑固」
長身の先輩は苦笑いを浮かべ、話を聞かないと言った琉聖を無視して勝手に名乗った。
「俺は部長の雨宮裕隆。こっちは伊達公恭。ふたりとも二年だ」
「え、三年生は?」
うっかり訊き返してしまい、猛烈に後悔した。長身のバレー部部長、雨宮は満足そうに笑っている。
「いない。前の顧問ともめて、一月で全員引退した」
なるほど、ワケありか。琉聖は静かにうなずいた。
かつて冬に開催されていた春高バレーの予選会がもろもろの事情で秋にずれ込んだことで、秋が通例だった新人戦が一月開催に変更された。つまり、実里丘の三年生は一月の新人戦を最後に引退したということになる。顧問との諍いごとき、と言っては失礼なのだろうが、進学校の生徒にとっては最後の大舞台となる四月のインターハイ予選を待たずに部を去った三年生たちの悔しさは計り知れない。
雨宮が再び口を開いた。
「最初に言っておくと、俺も公恭もきみを無理やり入部させるつもりはないんだ。ただ、佐藤がどうしてもきみをうちの部に引っ張るって言って聞かなくてなぁ」
三つの視線が煌我に集まる。煌我はなぜか胸を張り、雨宮はため息交じりに頭をかいた。
「人数が集まらなきゃ試合に出られないってのは確かにそのとおりなんだけど、やる気のないヤツと一緒になってボールを追いかけるのはやっぱり違うだろ? 部活なんて、誰かに強要されてやるようなものでもないし」
「強要なんてしてないっすよ、おれ」
煌我がまじめくさった顔で雨宮に反論した。
「それに、琉聖はやる気がないわけじゃないから」
「は?」
なに言ってんだこいつ。琉聖は煌我を睨んだ。
「なんでおまえにそんなこと勝手に決めつけらんなきゃなんねぇんだよ」
「だってそうだろ。言わないだけで、本当はバレーがやりたいって思ってるじゃん、おまえ」
煌我が言いきった直後、琉聖は煌我の胸ぐらに掴みかかった。
「いい加減にしろ! 俺の心を勝手に推測するな」
「ほら、そうやってすぐムキになる。図星突かれてるからだろ。素直になれよ」
咄嗟に振り上げた渾身の右ストレートが、煌我の左手の中にすっぽりと収まる。二度も阻まれた右の拳が、煌我の手のひらに当たったまま震えた。
「いつまで星川東の選手でいるつもりなんだよ、琉聖」
煌我のものとは思えない穏やかな口調が、琉聖をはっとさせた。
「ここは実里丘高校だ。星川東中じゃない。星川東のバレー部員は、ここにはひとりもいないだろ」
心臓が大きく跳ねた。体温が一気に上がる。悔しくて、苦しくて、頭が重くて上げられない。
左手の中にあった琉聖の右手を、煌我は優しく握ってゆっくりと下ろした。
「ここにいるのは、おれと、雨宮さんと、伊達さんと、おまえ。四人じゃバレーできないから、あともうちょっと増やすけど。とにかく、ここでやるバレーは、おまえの知ってるバレーとは違う。強豪校の出身だからいろいろあったんだろうなってことはなんとなくわかるよ。けど、またここから始めればいいじゃん。一から始めて、今度はおれらと一緒に全国制覇目指そうよ」
全国制覇だって、と伊達が苦笑した。雨宮もやれやれといった風で肩をすくめる。
握られた手が熱い。煌我の熱意がからだに流れ込んでくる。
本気だった。煌我は本気で全国制覇を目指している。全国の頂点に立つことを夢見ている。琉聖とならそれが叶うと言いたいのだ。中学ナンバーワンセッターの称号を手にした琉聖となら。
「わかったようなことを言うな」
つながれたままだった手を振りほどくと、琉聖はめいっぱい息を吸い込み、荒々しく声を張り上げた。
「おまえはなにもわかってない! 強豪校だからいろいろあった? あぁ、あったよ! 正セッターになってから全中の決勝で負けるまでの一年間、俺はアタッカーたちの奴隷だった! レシーブボールがネットからどれだけ離れていようが、完璧なトスを要求された! おまえらのレシーブがヘタだからトスの精度が落ちるんだって言ったところで、あいつらは俺の話を一切聞かない! ほんの少しトスが乱れただけで文句を言うし、失点すれば全部俺のせいにされた! 今のはおまえのトスが悪かった、おまえがヘタだから負けたんだ、口を開けばすぐそれだ! ちょっと上背があるからっていい気になって、たいした努力もせずに威張ってばっかり! だけどアタッカーには得点っていう活躍の証が残る! 自分のおかげで勝てたんだって、あいつらはいつだってそう言って胸を張った! 俺なんて、セッターなんてまるでコートにいなかったみたいに、踏み台だとすら思ってないみたいに無視されて! 俺は、俺なんか、あのチームにいなくてもよかったんだ!」
勢いにまかせて吐き捨てて、椅子にぺたんとへたり込んだ。教室に残っていた何人かのクラスメイトが琉聖を見ている。最悪だ。悪目立ちした。無風で平穏な俺の高校生活を返せ。心の中で煌我を呪った。
バレーボールは、二十五点を先取したほうが勝利するスポーツだ。そして、得点をもぎ取る役目は主にアタッカーが担う。セッターはアタッカーがより効率よく得点できるようお膳立てするのが仕事。コートに常時三人以上いるアタッカーひとりひとりの特性に合わせてトスを上げるきめ細やかな技術が要求されるのに、いくらうまくても得点を挙げないがゆえにアタッカーの影に隠れがちなのがセッターの特徴だ。派手なプレーに注目が集まるのは当然で、琉聖だってアタッカーになりたかった。一七二センチしかない自分のことが大嫌いだし、これから先も好きになることはきっとない。チビと言われることにも慣れてしまった。みじめだった。
「全中の決勝で負けた時も」
机に肘をついて頭をかかえ、琉聖は再び声を絞った。
「エースだったヤツから散々言われた。オレにトスを振ってたら勝ててた、おまえのせいで負けた、ただでさえヘタなくせにトスワークまでミスるなんてバカなのか、やっぱりおまえには才能がない、クズ、オレたち全員の夢をおまえがつぶした……」
息継ぎに失敗して噎せた。苦しい。「大丈夫か」と背に添えられた煌我の手を、琉聖はおもいきり払いのけた。
あの日からずっと、悪い夢を見続けている。
あの日、あの一球を後輩ではなくエースの同級生に振っていたら。せめてもう少し高く、クイックのトスを放っていたら。襲いくる後悔の波は、いつまでも引かないままだ。
「勝たなきゃいけない試合だった」
朦朧とした意識の中、よく考えもせずかすれた声でしゃべり続ける。
「ただ勝つことだけを目指していたチームだった。みんなで力を合わせてなにかを成し遂げようとしたことは一度もない。それぞれが、それぞれに、たったひとりで勝つための努力をし続けてきた、全然仲よくなんてない寄せ集めのチームだ。だから、負けてしまえばなに一つ手もとに残らない。結果を残せなかったら、積み重ねてきた努力はすべて水の泡になる。そういうチームだった。だから、あの決勝では絶対に勝たなくちゃいけなかった」
なのに、負けた。あの瞬間、二年生ミドルがスパイクをネットに引っかけた瞬間、琉聖の中でなにかが音を立てて崩れた。目標も、目的も、ほしいと願い続けた未来も、なにもかもが崩れ去った。跡形もなく、きれいさっぱり消えた。残ったのは、最悪の記憶だけだった。
琉聖にとって、あの決勝戦がそういう試合だったことを煌我は知らない。星川東中男子バレー部のレギュラーメンバー以外は誰も知らない。過去が変えられないというのなら、せめて忘れさせてほしいと思った。だから琉聖はバレーをやめた。自らの意思で、過去のものにしてしまった。
「頼むから、俺のことは放っておいてくれよ」
心の底から願っていることを、琉聖は震える声で煌我に伝えた。
「もう二度と、あんな思いはしたくねぇんだ。セッターだってやりたくない。奴隷にされるってわかってて、喜んでやるヤツがいるかよ。無理だ。俺にはできない。バレーなんて、もう二度と」
それきり固く口を閉ざし、琉聖は机に突っ伏した。いっそ泣いてしまいたいほど、猛烈に気分が悪かった。
「じゃあ、なんで」
しばらくその場にたたずんでいた煌我が、やがて静かに口を開いた。
「そんなにつらかったのに、なんでバレー部をやめなかったんだよ」
琉聖は答えなかった。三人の気配が消えるまで、ひたすら机に顔を伏せ続けた。
そっと頭を持ち上げると、いつの間にか教室にひとりきりになっていた。他のクラスメイトたちも、みんな体験入部へ行っただろうか。
――なんでバレー部をやめなかったんだよ。
煌我の問いがリフレインする。琉聖はリュックを背負って立ち上がった。
「……決まってんだろ、そんなの」
バレーが好きだったから。
毎日ボールに触っていないと不安になるくらい、大好きだったから。
ひとけのない廊下を行き、昇降口で靴を履き替える。
いつもはするりと履けるはずのスニーカーが、今日はなぜか踵がうまく入らなかった。