After the game
病院のベッドの上で、琉聖はぼんやりとテレビ画面を眺めていた。アフリカの大自然で暮らす野生のライオンについて特集する番組が流れている。
幼い頃の琉聖は、動物園で自分よりも大きな動物を何時間も見続けているような穏やかな少年だった。平穏という言葉を覚えた時、一瞬で好きになった。バレーボールを始めたせいで、大好きなその言葉とはほど遠い生活を送るようになってしまったけれど。
誰かが個室のドアをノックした。午後七時半。面会時間終了まであと三十分。
「どうぞ」
こたえながら、誰だろうと少し不安な気持ちになる。煌我たちは昨日来たし、その前日には顧問の浜園と二年生三人が来てくれた。他に見舞客があるとすれば……誰だろう。ピンとこない。
開かれた扉から覗いた顔に、琉聖はガバッと勢いよくふとんをはねのけた。
「井波さん!」
「すまんな、突然」
正南学園高校男子バレーボール部主将、井波稔春。先週末、琉聖たち実里丘高校と激闘とくり広げた相手チームのキャプテンだった。
「いや、あの……ちょっと待って」
真っ先に、くしゃくしゃの髪をどうにかしようとした。スカイブルーの前開きパジャマを着ている時点で礼儀もクソもあったものではなかったけれど、他校の先輩の手前、少しでも身なりを整えたかった。
「なにを焦っているんだ。そのままでいい」
井波は苦笑いでベッドサイドに歩み寄り、「少しだが、見舞いだ」と言って琉聖に小ぶりの紙袋を差し出した。
「ありがとうございます。すいません、わざわざ」
足もとにかかっていたふとんを剥ぎ、ゆっくりとベッドの脇へ足を下ろす。少しだけ気合いを入れて慎重に立ち上がり、紙袋を受け取った。
「もう歩けるのか」
井波がわずかに目を大きくした。
「手術は火曜だったと聞いているが」
今日は金曜。井波たちと試合をしてから六日が過ぎた。
「歩けますよ。めちゃくちゃぎこちないですけど」
琉聖はあっさりと答える。「てか、トイレ行けないし、自分で歩かないと」と付け加えると、井波は「そうか」と言って笑った。
「大変だったな。元気そうで安心した」
「ありがとうございます。井波さんも、優勝おめでとうございます」
ありがとう、と井波はこたえた。その顔には複雑な心境がうっすらと刻まれている。
六日前。
琉聖がコートを去った正南学園との第三セットは、眞生を投入し、雨宮を再び臨時セッターに据え、二十三対二十三で試合が再開された。
先にマッチポイントを取ったのは正南学園だった。しかし、煌我が意地を見せ、二十四点目を奪取する。
二十四対二十四になると、デュースといって、どちらかが相手に二点差をつけるまで試合が続けられる。気力、体力、技術、経験。すべての力を総動員して二連続ポイントを取りにいく、死闘とさえ言えるほどの激戦になった。
雨宮は煌我にトスを集めた。その選択は煌我の意思であり、チームの意思でもあった。
煌我は跳んだ。正南学園のブロッカー陣が恐れおののくほどに、高く。
ブロックの上から強打を放った。ちぎれそうなほどおもいきり右腕を振り、持てる力のすべてを出しきってスパイクを打った。
取っては取られ、取り返してはまた取られ。そんな試合展開が長く続いた。
第三セットの最終スコアは、二十六対二十八。セットカウント、一対二。熾烈な戦いの末、正南学園が執念の逆転勝利を収めた。
「おまえたちと当たっていなかったら」
琉聖がベッドへ戻るのを待ち、井波はベッド脇の丸椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
「優勝はできなかったかもしれない。あの試合で、全員が気づかされたんだ。このままじゃいけないと。現状に甘んじていてはいけないのだと」
実里丘戦のあと、正南学園は名北支部予選会のすべての試合で勝利した。決勝戦でも圧倒的な力量の差を見せつけて優勝したのだと雨宮から聞いていた。フルセットになったのは、実里丘との初戦だけだったという。
「大げさだな」
琉聖は苦笑した。井波は真剣な目をして首を振る。
「大げさじゃない。本当のことだ。正直、恐ろしかったよ。バレーがやりたくて正南学園を選んだ俺たちが、地方支部予選の初戦で負けるようなことがあってはならない。だというのに、耳の奥で少しずつ大きくなっていくんだ、敗戦の足音が。このままでは負ける。試合中、何度もそう思った。顔や態度に出さないよう必死だった。おまえがケガでつぶれていなければ、たぶん、負けていた」
井波の声がかすかに震えた。思い出すだけで恐怖が蘇るという経験は琉聖にもある。だから、わかる。井波は本当に、あの試合での敗戦を心から怖れていた。
「買いかぶりすぎだと思いますけど」
琉聖は肩をすくめた。
「俺が最後まで出てたとしても、正南が勝ってたんじゃないですか」
「どうだかな。おまえのトスに翻弄されて、もっと点差が開いていたかもしれない」
「そんなことないでしょ。俺にできることなんてたかが知れてるし」
素っ気なくそう言ったら、井波が声を立てて笑った。
「とことん自己評価の低いヤツだな、おまえは。もう少し自分の力を信じたほうがいいぞ」
「そんなこと言われても。セッターなんて得点力ゼロだし」
そういう問題じゃない、と井波は言った。確か前にも煌我に似たようなことを言われたなとふと思い出した。
「おまえたちのおかげで、優勝できたようなものだ」
噛みしめるように井波は語る。
「初戦が実里丘だったおかげで、そのあとに当たったチームがどこも弱く、小さく思えた。これなら勝てる。実里丘よりもずっと楽に。俺たちの誰もがそう思った。インターハイの名北予選で優勝するのは三大会ぶりのことだ。おまえたちに勝たせてもらった。ありがとう」
井波は丁寧に頭を下げた。まじめな人だ。この話をするために、わざわざ病院を訪ねてきたらしい。
「県大会、来月ですよね」
照れ隠しもあり、琉聖は少し話題を逸らした。
「勝てそうですか」
「わからん」
井波は正直な心境を吐露した。
「まず、推薦チームを下すのが難しいだろうな。四つのうち、少なくとも二つとは当たるだろう」
前回大会の覇者であり、愛知最強とも言われる、西三河地区の私立東堂大学附属高階高校。同大会準優勝チーム、名北地区の愛知県立星川工科高校。同三位、東三河地区の愛知県立豊橋工芸高校。同四位、尾張地区の私立名古屋啓徳高校。この四チームは県大会推薦チームとして地方支部予選への参加を免除され、県大会での四つのシード枠を埋める。
井波は琉聖に尋ねた。
「もし、はじめから高校でもバレーを続けるつもりだったとしたら、おまえはどの高校を選んでいた?」
琉聖のもとには数校から進学のオファーが届いていた。どの高校も強豪チームで、学力レベルもそれなりに高いという学校もあった。
「どうですかね」
琉聖は少し考えてから答えた。
「星工かな。家から近いし」
「他に候補は?」
「あー、そうですね……それ以外なら、県外の高校に行ってたかもしれないです」
井波は笑った。
「正南は最初から眼中になかったというわけか」
「そういうわけじゃないですけど。ただ……」
琉聖はわずかに視線を下げて言葉を濁した。
「憲翔とまた同じチームでやるってのは、ちょっと」
憲翔に限らず、かつて星川東中でともに戦ったチームメイトたちとは二度と同じコートに立ちたくなかった。奇しくも当時のレギュラー陣は全員が別々の高校へ進むという選択をし、仲の悪かった元チームメイトは、これで名実ともに全員が敵同士になった。
「その三上だがな」
井波が穏やかな笑みを湛えて言った。
「おまえたちとの試合を終えてから、人が変わったように練習に打ち込むようになったんだ。これまではどうにもやる気がなかったというか、身長に頼ってばかりの粗雑なプレーが目立っていたんだが、ここ数日、技術的な進化を求めて三年生からアドバイスをもらうようになった」
「憲翔が?」
「そう。あの三上が、だ」
信じられない。琉聖は目を丸くした。憲翔は誰よりも練習が嫌いで、けれど上背があるから他のプレイヤーよりも楽に派手なプレーができた。できてしまった、という言い方が正しい。技術的にまったく乏しいとは言わないけれど、井波の指摘どおり、よく考えもせず、身長だけを生かしたプレーに走りがちなところがあった。
「想像以上に伸びるかもしれんな、三上は」
井波は心底楽しそうに、少し先の未来の話をした。
「秋の春高予選では、三上が俺たちと一緒に試合に出ていたりしてな」
「マジで言ってんすか、それ」
「当たり前だ。一年だろうが三年だろうが、うまいヤツが試合に出る。スポーツとはそういうものだろう。勝ちにいくための陣を敷くのに、年齢なんて関係ない」
そのとおりだ。もしも実里丘にまだ三年生が残っていて、多くの選手の中からレギュラーを選べる状況だったら、三年生ではなく、一年生の琉聖や煌我が試合に出ることもあるだろう。ユニホームすら着られない三年生が出るかもしれない。どれだけ悔しくとも、スポーツは実力の世界だ。厳しい現実だが、チームのために受け入れるしかない。
「倒しますよ」
琉聖は井波の瞳をまっすぐに見つめた。
「憲翔が試合に出るならなおさらです。あんたたちに勝って、他のチームにも全部勝つ。今年の春高は、俺たちが全国大会へ行きますから」
憲翔に似合わないと言われた「倒す」という言葉をあえて使った。今度こそ最後まで自分の力でコートに立って、正南学園をぶっ倒したい。
セッターに得点力はない。けれど、強い武器なら持っている。
仲間。
誰よりも高く跳ぶエース。弱気だけれど、やるべきことはまじめにやろうとするミドルブロッカー。サーブで相手を崩してくれる双子。絶対にボールを落とさない初心者。口うるさいが実力は確かなキャプテンに、広い視野と勘のよさを持ち合わせる副キャプテン。
彼らの力を引き出し、生かし、重ね合わせることができたなら、それはどんな強大な敵でもなぎ倒すことのできる大きな力になる。みんなの間に立ち、みんなの力を集約する役目を担い、作り上げた巨大な武器を振り回して戦うのがセッターだ。
仲間がいれば、誰にも負けない。心から信頼できる仲間たちが、そばにいてくれたら。
今度こそ、後悔しないバレーボール人生を歩む。先週末の試合を経て、琉聖はそう心に固く誓った。
「いい顔になったな、久慈」
井波が言った。その顔が嬉しそうに笑っていて、琉聖は小首を傾げる。
「手術を受けたということは、それだけおまえが本気でバレーと向き合う気になったんだなと思ったが、やはり」
「もちろん」
琉聖は胸を張ってこたえる。
「俺、こう見えて負けず嫌いなんで」
「こう見えてもなにも、頭から足の先まで負けず嫌い丸出しだろう」
「え、マジっすか?」
二つの笑い声と、あーでもないこーでもないと楽しそうに言い合う声が、病室の空気をあたためる。見た目はイカツイのに心根は優しい人だなと、琉聖は敵チームの選手である井波にさらなる好感を持った。
琉聖は痛めた腰の手術を受けた。リハビリに二ヶ月かかると言われたが、迷いはなかった。
余計な心配をすることなく、純粋にバレーボールと向き合いたい。そのための二ヶ月なら惜しくない。
もっと上へ。今のチームで、次こそ全国制覇する。
夢は尽きない。やりたいこと、やれるようになりたいことが数えきれないほどある。
課題だらけの新チーム。指導者もいない中で、どうやって強くなっていくか。
不安がまったくないわけではない。けれど、不安よりも期待のほうが大きかった。
このチームなら大丈夫。みんなと一緒なら大丈夫。誰にも負けない、強いチームになれる。なぜか、そんな気がしてならない。
井波との談笑が続く。話題は、大好きなバレーボールについて。
飽きない。いつまでも語っていられる。
今も昔も、琉聖の世界はバレー一色に染まっている。
【CHANGE ~県立実里丘高校男子バレー部の受難~/了】




