2.
最寄り駅から校門まで徒歩十分弱、やや勾配の急な坂が延々と続いている。教科書類がぎっしり詰め込まれた黒いリュックを背負い、琉聖は背中にじんわりと汗をかきながら登校三日目の新しい学び舎を目指して歩いた。
クラスの男女比は四対六と、なぜか女子が多かった。学校全体で女子のほうが多いらしいと誰かが話しているのをちらっと聞いた。だからどうということもなく、席の近かった男子数人と仲よくなった。中学時代は運動部だったという者が多く、同じスポーツを続けるか、新しく別のスポーツを始めるかという話題でもちきりだった。
中学時代にバレーをやっていたことは黙っていた。尋ねられても「俺は部活やらないから」と言ってはぐらかし、話題を逸らした。実際、どの部活にも入るつもりはない。新生活に浮かれるクラスメイトと言葉を交わしたところで、入学前から固めていた気持ちに変化はなかった。
校門が視界に入ってくると、ようやく道が平坦になった。今日は風が少し強い。桜の花はいよいよ本格的に散り始め、アスファルトがピンク色の水玉模様になっている。
せっせと動かしていた足を止め、琉聖はふぅと長く息を吐き出した。
ぼんやりとして掴みどころのない痛みが、腰を中心とした下半身にまとわりついている。たった十分、坂を登っただけでこれか。なまりになまった鈍いからだを、琉聖は自ら鼻で笑った。
早く椅子に座りたいと教室へ急いだ。しかし、琉聖の席はあいていなかった。学ランの上からでも鍛え上げられていることがよくわかるデカい図体をした男子生徒に陣取られ、その男は一つ前の席の同級生と楽しそうに談笑していた。
「あ、琉聖来たぞ煌我」
椅子の背に肘を預けて後ろを向いていたクラスメイト、トモこと桐山朋幸が先に琉聖の存在に気づいて声を上げた。彼は中学から始めたバスケットボールを高校でも続けるという。
トモの声で、琉聖の席に無許可で座っていた煌我が教室後方を振り返った。「おぉ」と琉聖に向かって右手を挙げる。
「おはよ、琉聖」
にこやかに挨拶してきた煌我に一瞥をくれるだけで、琉聖は挨拶を返さなかった。トモとは気が合って入学早々仲よくなったが、煌我とは仲よくなりたいと思えなかった。バレーの話をしたくないというのもあるし、なにより琉聖は、能天気なヤツが嫌いだった。
教室の後方をゆっくりと進み、自らの席の横に立つと、琉聖は下ろしたリュックをドンと机の上に載せて煌我を睨んだ。
「どけ。人の席に勝手に座るな」
「いいじゃん別に。おれ、トモとは同中だし。ケチくさいこと言うなよ」
「出身中学関係ねぇだろ。さっさとどけ。俺は座りたいんだ」
冷てぇなあ、と文句を垂れて、煌我はようやく琉聖の席から離れた。トモが苦笑いで「おはよ」と琉聖に言い、琉聖も「おはよ」と小さく返して席についた。少し前屈みになると、下半身の疼痛が軽減した。
「なぁ、頼むよ琉聖」
昨日――入学式翌日と同じセリフを、煌我は恥ずかしげもなくくり返した。
「一本! 一本だけでいいんだ! テキトーな球でいい。おれにトスを上げてくれ。おれのスパイクを見てもらえれば、おまえは絶対、おれとバレーがやりたくなるから!」
琉聖は無視を決め込んだ。リュックを開け、中身を机の中へせっせとしまう。
最悪の出会い方をしてから三日。煌我はいまだ、琉聖のバレー部入りをあきらめていない。
入学式の帰り、翌朝、昼休み、放課後。クラスの違う琉聖のもとへ足繁くかよい、煌我は人目も憚らず熱心に琉聖を勧誘し続けた。自分も中学の頃に県大会まで進んだことがあるとか、一九九センチあるバレー経験者が同じ一年生にいるとか、二年生の女子マネージャーがめちゃくちゃ美人だとか。あの手この手をくり出して、琉聖の気を引こうと躍起になっている。当の琉聖が聞く耳を持たないので、今のところ成果はまるで上がっていない。
「なぁ琉聖、聞いてる? おれはな」
「あのさぁ」
苛立ちが頂点に達し、ついに琉聖は声を上げて煌我を睨みつけた。
「気安くファーストネームで呼ぶなって何回言えばわかんの? あと声がデカい」
「そうだった! すまん琉聖」
わざとらしく舌を出され、うっかり顔をしかめてしまった自分が悔しい。苛立たせて「あーもうわかった! 一本だけトス上げりゃいいんだろ!」と言わせるのが煌我の作戦なのだ、おそらく。バカそうに見えてちゃんと考えて動いているところが余計に腹立たしくて、琉聖はどうにか怒りを鎮めようと目を瞑って息を吐いた。
「何度でも言うけど、一本だけとか、そういうのないから。もうバレーとかかわるつもりないし、そもそも俺はおまえが思ってるほど優秀なセッターじゃないって」
「だーかーらーぁ!」
煌我が琉聖の机を叩いた。
「おれも言わせてもらうけど、おまえの低すぎる自己評価なんかマジでどうでもいいんだって! おれはこの目で見たものだけを信じてるから。おまえは紛れもなく、去年の中学ナンバーワンセッターだった。それが真実だ」
琉聖は視線を下げる。耳を塞ぎたくてたまらなかった。
毎年、全中の試合結果が出揃ったのち、その年の優秀選手十二名が選出される。全国各地に散らばった将来のバレーボール界を担う秀逸な人材が名を連ね、その中に『久慈琉聖』の名前もあった。去年選ばれた十二名の選手のうち、セッターは琉聖ただひとりだった。
うつむく琉聖に代わり、煌我が胸を張って言った。
「誰がなんと言おうと、おまえはすごいセッターだ。だからおれは、おまえのトスでスパイクが打ちたい。おまえのトスだったら、どんな高い壁でも打ち抜けるような気がするんだ!」
打たせてくれ、と煌我は改めてくり返す。打ちたくて打ちたくてたまらないと前のめる気持ちの向こうに、彼のいだく希望の光、試合で勝ちたいという強い思いが透けて見える。
琉聖は顔を上げなかった。これ以上誰にも期待されたくなかった。
期待されて、こたえられなくて、見限られて、貶められる。
おまえが悪い。おまえのトスが悪い。おまえのせいだ。またおまえのせいで負けた。そうやって罵られる日々とサヨナラしたくて、バレーをやめると決めたのだ。
予鈴が鳴った。あと五分で始業だ。「戻れよ、教室」と煌我に言った声がかすかに震えた。頭が痛い。
顔を伏せたままの琉聖に、煌我は言った。
「おれ、本気だから」
「なにが」
「マジで全国に行きたいんだ。インターハイでも春高でもいい。なんでもいいから全国制覇したいんだよ、おれは!」
全国制覇。
教室中に響いた煌我の声に、クラスメイトたちの視線が一斉にふたりのもとへ集まった。
「おれたちアタッカーが揃ってるだけじゃダメなんだ。いいセッターのいないチームじゃ、どれだけがんばったって強くはなれない。おれたちにはおまえが必要なんだよ、琉聖! 腕のいいセッターが、絶対に!」
知るか。さっさと出て行け。もう二度と顔を見せるな。苛立つ心で黙りこくっている琉聖に、煌我はダメ押しの一言を投げかけた。
「おまえならわかるだろ、琉聖。本当におもしろいバレーをするのって、セッターがうまいチームじゃんか」
琉聖の口から、ついに舌打ちがこぼれ落ちた。なにが「おもしろいバレー」だ。わかったようなことを言いやがって――。
机の上で握った拳に力が入る。バレーなんて、ちっともおもしろくなんかない。
琉聖にこたえるつもりがないことを悟り、煌我は自らの所属クラスへと戻っていった。最後に一言、煌我は「月曜の体験入部、待ってるからな」と言い残した。
聞こえないフリをした。一つ前の席で、トモが小さく息をついた。