10.
時間の経過とともに、世界が徐々に遠のいていった。
まず、フロアに立っているという感覚を失った。刃物で突かれるような鋭い痛みに、足の力が抜けていく。別人のものにすげ替えられた足を操っているような気持ちになった。ビリビリと痺れて、自分の足で立っているという自覚が持てない。
そのうち、音が聞こえなくなった。仲間がトスを呼ぶ声がとにかく遠い。アタックラインから走り出す空気と、影と、練習でからだに染み込ませたタイミングだけを頼りにトスを上げる。ジャンプの高さが少しずつ出せなくなっていって、低くなった分はボールの高さで調整した。
十対十四。一点差まで追いついたはずのスコアは、気づけば再び大きく引き離される展開になっていた。
ネット際に立ち、仲間がサーブレシーブを上げてくれるのを待っていると、思わぬところから声をかけられた。
「大丈夫か」
ネットを挟んだ向こう側。正南学園の井波だった。「大丈夫です」と琉聖は額の汗を拭いながら精いっぱいの憎まれ口を叩いた。
「余裕ですね、俺の心配をしてくれるなんて。このセット落としたらそっちの負けですよ?」
「わかっている。だが、それとこれとは話が別だ。今は対戦相手だが、バレーボール選手というくくりで言えば、俺とおまえは同じ場所を目指す同志とも言えるだろう?」
言いたいことがわからない。琉聖が眉をひそめると、井波は真剣な眼差しを琉聖に向けた。
「よく考えろ、久慈。その状態でコートに立ち続けることが、本当におまえのためになるのかどうか」
「俺のため?」
フンと琉聖は鼻であしらう。
「俺をはずして楽に勝とうっていうのが狙いですか」
バカか、と井波は吐き捨てるように言った。
「わからんヤツだな、おまえも。さすがは三上の元チームメイトだ」
「は?」
唐突に憲翔の名前が飛び出して、琉聖はついムッとしてしまう。どういう意味ですかと訊こうとしたが、尋ねる前に井波が穏やかに語り始めた。
「俺はこれまで、ケガに泣かされたプレイヤーを何人も見てきた。選手生命を絶たれ、バレーボール界から退いたそいつらの手の中に残ったものはなんだと思う?」
琉聖は黙ったまま答えない。井波が言った。
「後悔だよ」
「後悔」
「そうだ。あの時ああしていれば、こうしていれば……そんな思いが、いつまでもまとわりついて離れないらしい。俺はただ、おまえにそうなってほしくないだけだ。おまえのような優秀なプレイヤーが目の前でつぶれていく姿を見たくない」
井波の目はどこまでも真剣だった。彼は本気で、琉聖の未来を憂えている。だから、こうまで言った。
「雨宮の甘さにつけ込むな」
「え?」
「俺が雨宮の立場なら、蹴り飛ばしてでもおまえをコートから引きずり下ろす。おまえは一年だ。未来がある。たとえ控えセッターがいなかったとしても、今はまだ、無理を押し通す時じゃない」
敵に塩を送りたいのか、はたまた琉聖を惑わせたいのか。井波の発言に、琉聖はなんと答えるべきか迷った。
試合に勝ちたい。それ以外の気持ちはないし、そのために力を尽くすことに迷いはなかった。
今はまだ、と井波は言う。では、いつ無理をするのが正解なのか。
今以外の、いったい、いつ。
答えが見つからないまま試合は続いた。
落ちてきたフェイントボールに手を伸ばし、琉聖はフロアにすべり込む。いつもなら楽に届くはずのボールが、目の前で床を跳ねた。目と鼻の先だというのに、あと一歩が前に出ない。
「琉聖!」
腹ばいになったまま動けずにいる琉聖のもとへ、煌我が飛ぶように駆け寄ってくる。
「琉聖」
手を差し伸べてくれた煌我は、それ以上なにも言わなかった。ふさわしい言葉を探したけれど見つからなかったような顔をして、震えながら必死に立ち上がろうとする琉聖の背を支える。
「ごめん」
前屈みで両膝に手をつき、琉聖は上ずった声で煌我に言った。
「次は、絶対拾うから」
拾えるはずのボールだった。気合いが足りない。気持ちが足りない。ただそれだけ。
試合は続く。点差が開く。足が止まる。目が霞む。
勝負の第二セットは終始正南学園のペースで進み、最終スコアは十五対二十五。
一セット目の接戦が嘘みたいに大差をつけられ、実里丘は第二セットを落とした。
ベンチへと戻ったところで、琉聖は倒れた。




