9-3.
一瞬の強い痛みが、服にこぼしたコーヒーの染みのようにじわりじわりと広がっていく。ボールはかろうじて拾い上げたが、原始人のように背中を丸めた状態でからだが固まってしまう。
「琉聖?」
心配してくれる煌我の声がやたら遠くに聞こえた。こたえなくちゃならないのに、痛みに息が詰まって声が出ない。
「どうした? 大丈夫か」
煌我の右手が、おそるおそる琉聖の背に触れる。トンと小さく刺激が走り、おかげでゆっくりとからだを起こすことができた。
「ごめん、なんでもない」
「琉聖!」
「他人の心配してる場合じゃねぇぞ、煌我」
吐息の交じる声で琉聖は言った。
「おまえはとにかく、一点でも多く相手から奪い取ることだけを考えろ。それさえちゃんとやってくれれば、あとは俺がなんとかする」
「はぁ?」
煌我がデカい声を張り上げた。
「ちょっと待てよ琉聖。おまえ、どっか調子悪いんだろ?」
「耳もとで大声を出すな。鼓膜破れる」
怒りをぶつける声に力が入らない。手にしていたボールを右京へと投げた時には、声をかけることさえできなかった。
くそ、と心の中だけで毒づく。
想定していたよりもずっと早く痛み出してしまった。この試合が終わる頃まではうまくごまかせると思っていたのに。
うまくいかない。情けなくて、ふがいなくて、乾いた笑いが込み上げてくる。
こうなったら、意地でもこのセットを取って勝つしかない。
このからだが、完全に動かなくなってしまう前に。
○
「きたね」
ギャラリーの上で、憲翔が冷ややかな笑みを浮かべた。
この瞬間を待っていた。遅かれ早かれ、琉聖はこの試合中に必ずつぶれるとわかっていた。
「なぁ、憲翔」
隣のチームメイトが、苦悶に顔を歪める琉聖を見ながら言った。
「向こうのセッター、なんか足引きずってない?」
「足じゃない。痛めたのは腰だよ」
「マジで? 腰?」
「うん。琉聖には生まれつきの持病があるんだよね。腰骨が変形する病気」
「腰骨の変形? なんだよそれ、めっちゃやばそうじゃん」
「まぁね。通常は筋力の衰えたおじいちゃんおばあちゃんがかかる病気らしいんだけど、琉聖はそれを先天的に持ってるっていうか。あいつの場合、通常の人よりも腰が反り気味で、骨と神経に負荷がかかりやすいんだって。腰が反っているせいで、立っている間は腰に負荷がかかり続けて、骨の位置がおかしくなって神経が圧迫される。で、ただでさえ反ってる腰を、サーブやバックトスでさらに反らせたらどうなるか」
「それは……」
「そう、バカでもわかるよ。そんなことをすれば余計に負荷がかかって、痛みはひどくなるばっかりだ」
「マジか。そんなんでよくプレーできるな」
「バカだから、琉聖は。バカでもわかるようなことがわからないくらいのバカ」
憲翔があきれたように鼻で笑う。琉聖が『精密機械』だと言われる理由の一つがそれだ。
琉聖自身、自分を勝つための道具としか思っていない節がある。自分のからだのことよりも、チームの勝利を優先するような選手。心がないと言われても仕方がない振る舞いだった。
脊柱管狭窄症という名の疾患らしい。一度痛みが出始めれば最後、プレーしながら回復させることは不可能だ。そのうち足が痺れてきて、いずれは自力で歩くことさえできなくなる。
手術を受ければ完治する病気だと聞いていた。タイミングとしてベストだったのは、全中を終えた直後。手術を受け、リハビリをし、受験勉強をしながら進学する高校を決め、もう一度バレーと向き合う。どの高校でバレーをするにせよ、そういう道を選んでいれば、少なくとも試合中につぶれてしまう結果にはならなかっただろう。
だが、琉聖は全中を終えた時点でバレーから離れる決意を固めていた。だから手術を受けなかった。日常生活に多少の支障は出るものの、バレーなどの激しい運動を伴うスポーツをするつもりがない限り手術を受ける必要はない。適度な筋力トレーニングを継続することで痛みの出にくいからだを保つことができるからだ。
はじめて琉聖が腰の痛みを訴えたのは中学二年の夏だった。その時は正しい姿勢を保つための筋力トレーニングと痛みのケアを並行してどうにかプレーし続けてこられた。
しかし、今は違う。七ヶ月のブランクは、琉聖から正しい姿勢を保つための筋力を奪った。たった二週間のトレーニングで必要な筋力が戻るはずもない。ふにゃふにゃのからだで激しく動けば痛みが出るに決まっている。
琉聖の腰にもっとも負担がかかるのは直立の姿勢。長く立っていればいるほど痛みが増していく病気なのだ。跳び上がり、中腰の姿勢を取り、床を這う、座れる瞬間などないスポーツであるバレーボールを長時間続ければどうなるか、結果は最初から見えていた。
「バカなヤツ」
さっさとバレーをやめていれば、痛みに苦しむことになんてならなかっただろうに。期待をかけてくれていた、新しい仲間たちを裏切ることにも。
睨むように、憲翔は背中を丸める琉聖の姿を見つめる。
満身創痍の元チームメイトに、投了する意思はないらしい。




