1-2.
「うぉっ、無視!」
背後で煌我が声を上げる。琉聖は振り返らない。煌我が追いかけてくる気配がした。
「ちょっ、待てって! いきなりシカトはひでぇだろさすがに!」
知ったことか。琉聖はスタスタと校舎に向かって歩き続ける。
「なぁ、待てよ天才セッター!」
琉聖は立ち止まった。カチンときた。勢いよく振り返り、煌我の胸ぐらに掴みかかる。
「俺の前で二度とバレーの話をするな」
自分でも驚くほど低い声が出た。煌我は目を丸くした。
「次に俺を『天才セッター』って呼んだら殴るぞ」
「天才セッター」
琉聖が右ストレートを放つ。煌我は悠然と左の手のひらで受け止めた。押しても押してもびくともしない。肩幅の広さが、彼の持つ圧倒的なパワーを物語っていた。
続々と校舎へ入っていく新入生たちが、代わる代わる琉聖と煌我に目を向けていく。登校初日から不穏な空気を漂わせれば、気になるのも無理はない。
「なぁ」
琉聖の右手を静かに下ろし、煌我は尋ねる。
「おまえ、入るよな? バレー部」
答えなど求めていない訊き方だった。入るに決まっている。そう確信していてわざと訊いたような口調だ。
「なんでおまえみたいな全国レベルの選手がこんな無名の高校にいるのかよくわかんないけどさ。とにかく、ここでも続けるんだろ? バレーボール」
当たり前のように尋ねられ、腹が立って仕方がなかった。どうして初対面のおまえに俺の未来を勝手に決められなくちゃならないんだ。図々しいにもほどがある。
「やらねぇよ」
背筋を伸ばし、琉聖は煌我を見上げてはっきりと言った。
「期待してるとこ悪いけど、俺、もうバレーはやらないって決めてるから」
煌我の瞳がぐらりと揺れた。想像していなかった答えが返ってきたらしい。
桜の花びらが風に舞う。驚いているのかと思ったら、今度は突然、煌我は声を立てて笑い出した。
「なに言ってんだよ。冗談ならもっとおもしろいこと言えって」
「は? ふざけんな、冗談なわけねぇだろ。俺は本気だ。もうバレーはやらない」
「嘘だね。ふざけてんのはそっちじゃん」
「だから嘘じゃねぇって」
「嘘だ!」
煌我は唾をまき散らしながら声を張り上げた。
「やめられるわけない! あんな……あんな悔しい負け方をしたままで、おまえのバレー人生が終わっていいはずがない!」
琉聖は目を見開いた。――まさかこいつ、あの決勝戦を見ていたのか。
ふたりの間に静寂が訪れる。遠巻きにふたりの様子を見ている新入生たちが「なんだよ、いきなりケンカ?」とひそめた声でささやき合った。何人かは足を止め、ふたりの会話に聞き耳を立てている。
「悔しくないのかよ」
拳を握りしめた煌我が、およそ半年前の夏に開催された全中の決勝戦について語り始めた。
「おまえたち星川東が一セット目を落とした時、このまま相手が連取して優勝かなって正直思った。けど、おまえたちは二セット目を逆転勝ちして、フルセットに持ち込んでさ」
「やめろ」
全身から血の気が引いていく。顔を伏せた琉聖が小さく言うのも聞かず、煌我は続ける。
「どっちのチームも気迫にあふれてて、勝ちたいって気持ちがすげぇ伝わってきた。おれ、会場で試合見てたけど、最終セットなんてめちゃくちゃ興奮したよ。最後はデュースにまでなったんだよな」
「もういい」
「一点ビハインド、相手のマッチポイントだ。相手が得点したらおまえらの負け。相手のサーブから始まるラリーで、前衛にはおまえと、レフト側にエースアタッカーの三年生、もうひとりは長身の二年生ミドルだった」
「やめろって」
「相手のサーバーがビビったのか、サーブはリベロのところへまっすぐ吸い込まれていった。うまいよな、あのリベロ。完璧なサーブレシーブだったよ。絶妙なボールがきれいにおまえのところへ返った。さぁ、おまえはどっちへトスを上げるか……レフトで待ってるエースの三年生か、クイックに入る二年生か」
「やめろ!」
耐えかねて、琉聖が叫んだ。
頼む。やめてくれ。食いしばった歯の隙間から漏れ出る吐息が震えている。
最悪だ。
ふざけるな。一番思い出したくない瞬間を、ベラベラベラベラわかった風にしゃべりやがって――。
全身が震えた。声が出ない。まるで他人のからだとすげ替えられてしまったように、琉聖はうつむいたままその場に立っているだけで精いっぱいだった。
「驚いたよ、あの時のおまえの選択には」
煌我が静かにズボンのポケットに両手を突っ込み、ほんの少しだけ声のトーンを落として言った。
「おまえはエースの三年生じゃなく、二年生のミドルブロッカーでクイックを仕掛けようとした。ミスったら負け決定のあの場面でだ。勇気あるなこいつって思った。感心したよ。一瞬の迷いもない、完璧なトスアップだった」
琉聖の唇の隙間からかすかに声が漏れた。やり場のない怒りと悔しさが込み上げてきて、大声で叫びたい衝動に駆られる。
煌我の言うとおりだった。
最後の一球になるかもしれない大事な局面でのトスを、琉聖は三年間一緒にがんばってきた仲間であるエースアタッカーではなく、ミドルブロッカー――センターから速攻を仕掛けるアタッカーの後輩に託した。そいつがスパイクをネットに引っかけて、ゲームセット。三年間、ずっと目標にしてきた全国制覇という夢を、目の前で失った瞬間だった。
バレーボール。
ネットを隔てて二つに分けられたコートにそれぞれ六人の選手が入り、三回のボレーで相手コートに攻撃を仕掛ける球技。
一本目をレシーブ、二本目をトス、三本目をアタックまたはスパイクという。攻撃に向けてボールをつないでいる間、ボールを手で持ったり、ひとりが二度連続してボールに触ったりしてはならない。
全身を駆使してボールを弾き、次のプレイヤーへとつないで、ネットの向こう側、相手コートへボールを落とすか、あるいは相手のミスを誘えば一点を獲得できる。自分たちのミスでボールを落としてしまえば、相手に得点が入る。
一ラリーごとに一得点ずつがどちらかのチームに入り、二十五点を先取したほうが一セットを獲得。高校までは全国大会の決勝戦などを除き三セットマッチで、先に二セットを取ったほうが勝ちだ。
セッターとは、一本目のレシーブボールをトスに変え、スパイクを打って相手コートに攻撃するアタッカーへとつなぐ役割を担う中継役的ポジションである。
基本的にセッターはコート上にひとりだけで、残りはアタッカーとレシーバーだ。自身が一本目のレシーブをしない限り、二本目のボールはセッターが触る。試合中もっとも多くボールを触るのがセッターであり、それゆえに高い技術、強い精神力、戦況を冷静に見極めて最適な攻撃を組み立てる瞬発力や洞察力など、多くのことを同時に要求される難易度の高いポジションだ。
琉聖はセッターだった。全国大会の舞台を経験し、強豪校として名を馳せる高校バレー部の監督からも一目置かれるほどの高い能力を持つプレイヤーである。
琉聖自身、高校でも大学でも、それこそ一生をかけて、バレーを続けていくつもりだった。
全中の決勝戦で、痛恨のトスミスをするまでは。
負けたのはおまえのせいだと、仲間たちから非難の声を浴びせられるまでは。
「おまえのせいじゃないぞ、あんなの」
わなわなと肩を震わせている琉聖に対し、煌我はあっけらかんとした口調で言った。
「あれはあきらかにアタッカーのミスだ。トスミスなんかじゃない。誰がどう見たっておまえの采配は間違ってなかったし、上がったトスだって完璧だった」
「……違う」
「違わねぇって。見てたもん、おれ。相手ブロッカーは確実にレフトからの攻撃を意識してた。おれだってレフトにいるエースを使うだろうって思ったよ。つまりおまえの配球は、完璧に相手の裏をかいてたんだ。いや、見ていたおれたちも含めた全員の期待をいい意味で裏切った。実際、おまえの上げたAクイックのトスに、相手ブロッカーはレフトへの速い攻撃を意識しすぎて飛び遅れてたもんな。なのに、だ」
煌我は、自分が出ていた試合でもないのに心底悔しそうな顔をする。
「トスの上がったミドルの二年生……あいつ、一瞬出遅れたんだ。同じコートで戦ってたあいつまで、琉聖の采配に騙されてた。サイドアタッカーのおれでもわかるよ、クイック要員のくせに一歩目が遅れて、そのまま打ったらネットにかかるに決まってる。なのに、あいつは打った。結果は見えてたはずなのに」
煌我はため息をついた。自分と同じ名古屋のチームが全国制覇するかもしれないと、彼は相当の期待をかけて試合を見ていたのだろう。その期待を、琉聖たちは裏切った。完膚なきまでに。
「おまえは見てなかったかもしんないけど、あの二年生、トス上がった瞬間『えっ、おれ?』みたいな顔したんだよ。ふざけんなって思った。いつだって自分にトスが上がるものだと思って準備するのがアタッカーの仕事だろって。もしおれが一緒にコートに立ってたセッターだったら、あいつのことめちゃくちゃに怒鳴り散らしてたよ。あんな負け方、おれなら悔しくてたまんねぇ」
「おまえになにがわかる!」
琉聖の怒号が轟いた。煌我が小さく息をのむ音が聞こえた。
我慢の限界だった。これ以上好き放題言わせてはおけない。
伏せた顔を隠していた髪を払いのけるように顔を上げ、琉聖は煌我を睨んだ。
「『おれがセッターだったら』? よく言うよ、セッターなんてやったことねぇって感じのデカい図体しやがって。おまえらアタッカーに、俺の気持ちなんてわかるわけねぇだろ!」
張り上げられた琉聖の声に、煌我は言い返さなかった。ただただ驚いているようで、その態度が余計に腹立たしい。
「もううんざりなんだよ。これ以上、おまえらアタッカーの奴隷にされるのは」
バレーなんて、セッターなんて、つまらない。
ヘタなレシーブボールを追いかけさせられ、自分が点を決めることしか考えていないアタッカーのわがままな要求に無理やりこたえさせられる。そんなポジション、どこがおもしろいんだ。地味だし、いいように使われるだけ。得点という対外的な評価が得られやすいアタッカーとは違い、セッターが褒めそやされることはほとんどないのだ。がんばっても、がんばっても、努力を認めてもらえない。セッターなんて損ばかりするポジションだ。全然おもしろくなんかない。
琉聖は今度こそ煌我を振りきり、校舎の中へと入っていった。
高校選びに失敗した。心からそう思った。