1-1.
校門から校舎の昇降口にかけて、長い行列ができていた。
めでたく初登校の日を迎えた新入生を、在校生が花道を作って出迎えている。「入学おめでとう!」と型どおりの文句を口にしつつ、彼ら在校生の本心はまったく違うほうを向いていた。
まだ春休み中の在校生が、自分たちにはさっぱり関係のない入学式の日にわざわざ登校しているのである。理由がないはずはない。彼らは皆、自分たちが所属している部活動へ新入生を勧誘しに来たのだ。
それがここ、愛知県立実里丘高校入学式の伝統的な光景だった。一部のまじめな学生を除き、ほとんどが制服を着用していない在校生たちの両手には、部活動勧誘用に手作りされたビラがどっさりとかかえられていた。
「バスケ部です、お願いします!」
「きみ、おれたちとラグビーやらないか!」
「漫研、漫画研究部だよー」
運動部の揃いのジャージに、なんだかよくわからないキャラクターのコスプレ。華やかだがとにかく騒がしい在校生たちが、他の部に貴重な人材を取られまいと次々にビラを押しつけてくる。至近距離で大声を張られ、鼓膜が破れそうだった。あまりのやかましさに、せっかく今日という晴れの日まで散らずに踏ん張ってくれた桜の花がすべて吹き飛んでしまうのではないかと心配にさえなってくる。
ご近所迷惑レベルの喧噪の中を、久慈琉聖はひたすら下を向いて歩いていた。この学校に入学を決めたのは、自宅からそれなりに近くてかよいやすそうだったから。県内屈指の難関進学校だったのはたまたまだ。こだわりなんてなかったし、受かったのも運がよかっただけだろう。
去年の夏から、無気力な日々が続いている。
どうでもよかった、なにもかも。誰ともかかわりたくないし、やりたいことも特にない。しいて願うことがあるとすれば、できるかぎり無風で平穏な高校生活を送りたい。それくらいだった。
だから、部活になんてまるっきり興味がなかった。入るつもりなど毛頭ない。「話だけでも聞いてってよ」という声にこたえるつもりもさらさらない。……はずだった。
まもなく昇降口が見えてくるというところで、琉聖はうっかり歩調を緩めてしまった。もっとも見たくない球体を手にし、濃紺のジャージを身にまとった男子生徒がふたり、琉聖の前にビラを差し出してきたのである。
「バレー部、お願いします!」
凜々しい笑みを湛えたその男子生徒の双眸をとらえるには、視線を少々上げなければならなかった。他の生徒たちより頭一つ分背が高い。一八五センチ以上は確実にありそうだ。いかにも秀才っぽい、賢そうな顔をした人だった。
「部の存続がかかってます! 迷っているならぜひうちに来て!」
長身の彼の隣で、同じジャージに眼鏡姿の男子生徒が琉聖に声をかけてきた。できれば視界に入れたくない球体、バレーボールを右腕と脇の間に挟んでかかえている。身長は琉聖よりわずかに大きく、推定一七五センチ。日本人男性の平均身長よりは大きいけれど、バレーボールをするにはやや小さい。
お願いします! とふたりのバレー部員が声を揃えた。もらうつもりなどなかったのに、いつの間にか琉聖の手の中には男子バレー部のビラがきっちりと収まっていた。
ゾロゾロと移動する新入生たちの波に乗って、ゆるやかに足を動かしながら彼らの前から遠ざかる。気がつけば、目の前に校舎への入り口が見えていた。
ほんの少しだけ新入生の列からはずれ、手渡されたビラに目を落とした。
〈求む! 男子バレー部の救世主!〉
そう銘打たれた見出しの文字に眉をひそめる。――救世主? なんだそれ。
続きを読めばその意味がよくわかった。どうやら現在、男子バレー部の部員はたったのふたり、先ほど琉聖にこのビラを手渡してきた彼らだけらしい。このまま新入生が入らなければ部の存続は不可能。愛好会としてならば続けられるが、人数が揃わなければ公式戦には出場できない。つまるところ、実里丘高校男子バレーボール部は、廃部寸前の危機的状況にあるということだ。
「なるほどね。それで『救世主』か」
誰にも聞こえないくらいの小声を漏らし、琉聖は右手でくしゃりともらったビラを握りつぶした。
――やらねぇよ、もう。
バレーなんて二度とやらない。
中学最後の試合を終えた時、そう固く心に決めた。
あの日を境に、バレーとは縁を切ったのだ。バレーをやめれば、もう二度とあんな悔しさを味わわずに済む。心ない罵声を浴びせられることも、あいつらの腐りきった顔を見ることだってなくなる。
最高だ。最高の選択をした。
俺は間違ってない。
バレーなんて。
バレーなんて、大嫌いだ。
「ああああああああ――ッ!」
ひとり感傷に浸っていると、背後から絶叫が聞こえてきた。耳をつんざくその大声に思わず肩を震わせた琉聖は、なにごとかと声のするほうに首を向けようとしたのだが、
「うおぉ! マジか? マジだよな!」
琉聖が振り返るよりも早く、声の主が琉聖の肩を引っ掴んだ。強制的にからだの向きを変えさせられ、琉聖はひとりの男と対峙した。
「なんでおまえがここにいんの!」
「誰……?」
「全中準優勝、星川東中のセッターだろ、おまえ!」
その声を最後に、世界から音が消え去った。
――おまえのせいだ。
昇降口横、背中には校舎の壁。
琉聖と同じ学ランを身にまとった新入生のその男は、がっちりと琉聖の両肩を掴み、キラキラと二つの瞳を輝かせて、十センチ以上高い位置から琉聖を見下ろしている。
軽い眩暈を覚え、琉聖は静かに顔を伏せた。セッター。全中準優勝。もう二度と聞きたくないと思っていた言葉だけが、耳の奥で静かにくり返されている。
――おまえのせいだ!
あの日の記憶が蘇る。
中学最後の大舞台、全中――全日本中学校バレーボール選手権大会。全国大会、決勝。
仲間が上げたレシーブボールをトスに変え、相手に直接攻撃を仕掛けるアタッカーへとつなぐ中継役、セッターとしてコートに立っていた琉聖に対して、同じコートで戦ったエースアタッカーが試合後に放った言葉。
――どうしてオレに上げなかった! 負けたのはおまえのせいだ!
忘れたくて、バレーをやめたはずだった。
なのに、あの日の記憶はいつまで経っても頭にこびりついて離れない。ほんのわずかなきっかけで、すぐさま地獄の日々だった中学時代に連れ戻される。何度でも。何度でも。
「最高だ」
人生最悪の記憶の苦しみに苛まれる琉聖のことなどまるで気に留めることなく、絶叫男はそっと琉聖の肩から手を離し、小さくガッツポーズをした。
「やっと……やっといいセッターに出会えたぞ。これでおれも、全国の舞台に立てる!」
男の言葉に、琉聖は身を固くした。――全国? こいつ、今そう言わなかったか?
星空を映したようにきらめく笑みを浮かべた男は、琉聖に右手を差し出し、高らかに名乗った。
「おれ、佐藤煌我! 向西中でバレーやってたんだ。ポジションはアウトサイドヒッター。おまえみたいなすげぇヤツとチームメイトになれるなんて夢みたいだよ!」
よろしく、と絶叫男こと佐藤煌我は白い歯を見せてさわやかに笑った。琉聖は差し出された煌我の右手をじっと睨む。
なにが「よろしく」だ。全然よろしくない。
突き抜けて能天気な男だと思った。自分のことしか考えていないのはかつてのチームメイトたちと同じだし、ポジションも同じアタッカーだ。こういうヤツとは特にチームを組みたくない。自己主張の激しいヤツも厄介だが、なにも考えていないヤツはもっと厄介だ。考えていないくせに文句ばかりが一人前で、責任は絶対に取ろうとしない。全部他人のせいにする。
どうせこいつも、あいつらと同じだ。琉聖は煌我の手を取るどころか、彼の存在などはじめからなかったかのように無言でその場を離れた。