第九十七話・「覚える必要なんて無いじゃない」
キズナの舌打ちは、敵の耳には入っているだろうか。
ほっそりとした長身の女が霞のようにキズナの背後に現れた途端、迷わず必殺の一撃を放ってきたのだ。常人ならば、心臓の収縮運動の停止を余儀なくされ、右心房から送り出される血液の傍流を止めることなく、ばたりと倒れ伏しているだろう。
キズナの野性的な反応が、ギリギリでキズナの命を繋ぎ止める。
キズナの死角に回り込もうとする女。どんな武器による、どんな攻撃かも分からないまま、キズナは身体を後ろへとスウェーする。喉元をかすめる鋭利な刃が、キズナの前髪を綺麗に両断していく。
「これも外れました」
「何してくれんのよ! 髪は女の命だってのに!」
再度繰り出される攻撃をキズナはまたもや勘でもってかわしてみせた。距離を取ろうと地面を蹴り、ここで初めてキズナはヒップバックに手を突っ込んだ。
取り出されたのは【川蝉】である。
魔力を送り込むことで青い刀身を出現されるキズナの愛刀。膨大な魔力を消費し続ける代わりに、無類の切れ味を顕現させる魔法具である。キズナは背後に背後に回り込もうとする得体の知れない敵の動きを牽制すべく、まだ刀身の形成されていない柄を握りしめ、魔力を送り込む。
「ちょろちょろと!」
キズナの身体からわずかに青い光りが漏れ始め、それは刀身へと行き着いたところで爆発する。刀を振り抜いたキズナが、振り抜いた姿勢で止まる。神々しく光る【川蝉】の刀身が、敵の動きを止めていた。
「ようやく捕まえたわよ、ちょろちょろ女」
鍔迫り合うのは、透明な何かであった。
【川蝉】の魔力で構成される超高熱の刃を受けて、見えない武器がぎりぎりと悲鳴を上げている。特殊な鋼材でできているのか、背後の景色を透かしながら、敵の刃は火花を散らせている。馬鹿力でもって鍔迫り合いを制そうとするキズナに、敵はここで初めて後退を選択した。
キズナを足払い、キズナはそれを跳躍で逃れる。
そのわずかな隙で女ば後方に宙返りをし、何事もなかったのかのようにキズナの前に立つ。呼吸一つ乱していない。息すらしているかも怪しまれるほど、整然としたたたずまいである。まるで白亜の殿堂に置かれた女神像を思わせる、冷たく静謐な姿である。
真っ白なワイシャツ、漆黒のタイトスカート。
大企業を影で支える秘書を彷彿とさせる服装と、ショートボブという髪型に艶のある黒髪が個性を放っていた。アメジストに似た紫色のイヤリングが、入り込む月光に、不気味に輝く。武器を持っている様子はない、キズナの心臓を貫こうとした獲物はどこかへ隠したらしい。
俺は、その女に見覚えがあった。キズナも、もちろん知っているはず――
「誰よ、アンタ」
……おい。キズナよ、お前はもっと海馬に仕事をさせろ。終いには海馬ニートと命名してやるぞ。
刀身を消失させたキズナの身体から、青い残滓が消えていく。手に残るのは魔法刀【川蝉】の柄だけとなる。
(おい、キズナ。お前はこの女に本当に見覚えがないのか?)
胸ポケットから小声でささやく。キズナは顎に手を当てて難しい顔をし始める。本当に考えているのか怪しいものである。
「知らないわよ、もしかして私の生き別れた姉妹とか?」
(だとしたら、これは出会った不幸という奴だな。お前と再会するぐらいなら生き別れたままの方が幸せというものだ)
「アンタも生き別れにしてあげようか? そうね……右と左にでも」
(俺は活き作りにされる伊勢エビか何かか? 身体を分割されても生きていられるほど、俺ははしぶとくはないぞ。キズナ、覚えているはずだぞ、お前が食堂車で一悶着を起こしたときのことだ。マレーナが通りすがりの男に助けられて、その男を探しに現れた女だ)
「ふーん……。ああっ!」
ぽんと拳を手のひらに打つ。
(ようやく思い出したか)
ため息を胸ポケットにこもらせる。
「忘れたわ」
オイコラ馬鹿弟子。俺の時間を返せ。俺の労力を返せ。
「でも、覚える必要なんて無いじゃない」
子供なら泣き出してしまうだろう、キズナの凶悪な笑み。
「すぐこの世からいなくなるんだから」
「それは彼方の方です」
氷の吐息のような澄んだ声が、列車の中に信じられないほどよく響く。女は手をだらりと垂らしたまま、まるでゴーストのように動き無く立ったまま動く気配はない。キズナは受けてみろと言わんばかりに、正面から加速した。
更新、牛歩の如し。ごめんなさい。