第九十六話・「今すぐ訂正を要求します」
「寄るな……本当に、本当に殺すぞ!」
テロリストが人質である禿頭男にさらにナイフを押し当てる。まるで自らの本気をナイフと人質の距離に例えるように。
「だから、殺れって言ってんのよ。じゃないと、我慢できなくてアンタを先に殺すわよ」
ずんずんとテロリストとの距離をつめていくキズナ。その一歩一歩に迷いはない。
「良いこと教えてあげる」
獲物を追い詰めた猛獣の笑み。
「アンタがその豚野郎の頸動脈にナイフを突き立てたが最後、二度とナイフを振らせはしないから。私ならそれが出来ちゃうのよね。何たって、アンタと私では格が違うもの」
馬鹿にする口調は、決してうそぶくものではない。キズナの力を持ってすれば、口笛を吹く気楽さで有言実行するに違いない。
「そうね……頸動脈から噴水のように吹き上がる豚の血しぶきをくぐり抜けて、まず耳を打つ。手始めにアンタの三半規管を潰すわ。平衡感覚を失わせたあとに、肘で顎を潰す。反撃の暇はおろか、声を出す暇も与えない。次に腹部に拳をめり込ませて胃の中身をぶちまけてもらって、とどめは後ろ回し蹴り。首の骨が折れると同時にサヨウナラ。地獄に堕ちてもらうわ」
キズナの言葉が張り詰めた車内の空気をさらに凍らせる。乗客全ての脳に、まるで未来視させるようだ。骨の粉砕される生々しい音と、吐き出した内容物が床に落ちる汚い水音が、乗客の頭に想像させたに違いない。
何とも悪趣味なやり方に、乗客の何人かがえずくのが見えた。
「私は言ったらやるわよ」
嘲るような笑いがきっかけだった。
「クソが!」
怒号を吐き出すと同時に、テロリストは人質をキズナへ向かって突き飛ばした。キズナの迫力に根負けしたらしい。
禿頭男がキズナの前を邪魔するように向かってくる。後方からはナイフを逆手に構えたテロリスト。キズナはそれを苦し紛れの抵抗と見るや、鼻で軽く笑い、身体をかがめて突進した。キズナへ覆い被さってくるように倒れてくる禿頭男。顔は悲壮と絶望に彩られている。
「邪魔」
キズナはその禿頭男の身体を盾にするように懐に入り込み、即座に体当たりをぶちかます。確か鉄山靠と呼ばれる体当たり技の一つだったか。
禿頭男が車輪に引かれた蛙のような声を出すのと時を同じくして、テロリストの視界からキズナが消える。禿頭男の身体を盾に、テロリストへと肉薄。テロリストは、キズナへの妨害とするはずだった禿頭男が、逆に自分に向かって飛んでくるのに驚いて座席の方へとっさに身体をさばく。さばいた後に、テロリストが見たものはおそらく栗色の風だったに違いない。
キズナが本気で加速をするとき、その速さから、振り乱される栗色の髪の毛はまるで残像のように揺れ動く。禿頭男が床を転がっていく音に混じり、キズナが地面を蹴った。座席の背もたれに手を突き、席ごと飛び越えるようにして、テロリストの顔面へ膝をたたき込む。
鼻骨が潰れ、血が飛び散る。
キズナの頬に鮮血が付着し、テロリストは意識を彼方へと飛ばすことになる。仰向けに倒れ、びくびくと身体を痙攣させるテロリスト。奇妙に痙攣するテロリストを無表情で見下ろし、キズナは頬に付着した血液を手の甲で拭った。一拍して車内に戻る静けさ。
「これで終わりみたいね。案外たいしたことないじゃない」
つまらなそうに息を吐くキズナ。期待していたものに裏切られた落胆は、まるで売り切れのおもちゃを惜しむ子供のようですらある。
「期待して損したわ」
転がっていた禿頭男がうずくまりながらごほごほと咳き込むのを横目に軽口を叩く。乗客達の信じがたいものを見るような目は、いまだにキズナにつきまとう。
助けられるのを当たり前と思っている弱者の論理がこのキズナに通用するはずがないのだ。馬鹿弟子には一般的な倫理観はない。あるとすれば己の意思を突き通す力だけ。自分の正しさを証明する力だけだ。
「うるわも大げさなのよ。【ハンド・オブ・ブラッド】なんて、所詮は雑魚の集まりに過ぎないってことね」
「その言葉、今すぐ訂正を要求します」
――氷のような言葉は後ろからだった。
キズナの身体を駆け上がった悪寒が胸ポケットにいる俺にも伝播する。気配はなかった。ゆえに注意を発することも出来なかった。
視界の端に飛び込むのは銀光。
キズナを一突きにせんと滑り込んでくる。狙いは心臓だ。代えのきかない無二の器官を狙う一線。死への予感がキズナを瞬間的に突き動かす。弾かれるように身体をひねるキズナ。刃はキズナの脇腹を切り裂き、制服の生地を舞い上がらせ、キズナの赤を吸収する。
「外しました」
淡々とした事実を告げる声は、氷の肌触り。うるわの事務的な声を下回る血の通わぬ声。




