第九十一話・「へぇ、それは大変ね」
『命と同じくらい大切な物があったとして、その大切なものが脅かされそうになったとして、命を懸けることでしかそれを守ることが出来なかったとして……。そのとき、私は大切なものを守るべきなのでしょうか、それとも、大切なものをあきらめて命を守るべきなのでしょうか。悩んでも悩んでも答えには届きません。悩んでも悩んでも選択することが出来ません』
凹凸の多い紙の上に、歪んだ文字がつらつらと書かれている。紙に染みこんだ水滴は、書いた後に落ちたのか、書く前に落ちたのか。そんなどうでもいいことがふいに頭をよぎり、そのどちらでもあることに気がつく。よく見れば紙が破れかけている文字もあり、インクの黒が薄められて歪んだ文字もあるからだ。
『先生ならなんて言うのかな……。優しくしてくれるのかな、叱るのかな、茶化すのかな』
文字から表情が浮かんでくる。
エリスを教えているとき、エリスは勉強中に俺の顔をチラチラと見てくることが多々あった。
俺が注意すると、エリスはわざとらしくとぼけて俺の叱責を誘うのだ。
そうして逸れた横道で、エリスは俺が見てきた世界の色々を見たがり、俺の知っている知識の色々を知りたがり、俺が経験してきた色々を経験したがった。俺の口から話される様々な事柄を、まるで神の託宣でもあるかのように興味津々に聞きいるのだ。
俺が嘘を言っても疑うことなく信じる様は、お手をしたら犬耳をぴょんと立てて右手を差し出してくる忠犬のようであった。
過去のエリスを瞳に宿したまま、現実のエリスを再び目に映す。小さい身体をより小さく縮ませて怯えている少女の姿からは、俺が教えていたときの元気な姿を重ねることが出来ない。
病魔が、苦痛が、命を狙われる危機感がそうしたのだろう。
「……うるわ、気が付いてるわよね」
「ええ、言われるまでもありません」
額をぶつけ合っていた両者が、背反し合う主義思想とは別の意図を持って言葉を交わす。
ぶつけ合っていた視線はドアへ。
俺も日記に目を通しながら耳を逆立てて、周囲の状況を探る。遠くから、何者かかが駆け足でやってくる気配がある。息づかいや足音は細く軽い。それも訓練はされていない類のものだ。
俺の俺の予想が正しければ、それは俺の知る女の足音であるはず。ハムスターである俺の五感が告げている。
「キズナ様! おりますか!」
俺の予想は的中した。
マレーナの声が、騒がしい足音と共にドアを叩いた。ノックする音に混じってマレーナの激しい息づかいが聞こえる。相当慌てているらしい。
「キズナ様! キズナ様!」
「キズナを呼んでいるようですが」
なおも叩かれるドアに、うるわがキズナをにらみ付ける。頑として譲ろうとしない額の力比べを継続しながら、キズナがいらだたしげな声を投げた。
「聞こえてるわよ、うるっさいわね。マレーナ、どうしたのよこんな時間に。人騒がせにも程があるわよ」
「キズナが言えた台詞ではありませんね」
「ハサミは刃を向けて人に渡すなって習わなかったの、馬鹿メイド」
断じて、お前達が言えた台詞ではない。
ようやくにらみ合いを終わらせた両者のうち、うるわがドアを開けてマレーナを室内へ引き入れる。息も整えずに話すものだから、声を詰まらせることになる。それだけで冗談ではないということが伝わってきた。
「に、に、逃げて下さい、キズナ様! この列車は、この列車は――」
上気した顔で、キズナの手をすがるように握りしめるマレーナ。
「テロリストによって占拠されました!」
「へぇ、それは大変ね」
軽い口調で応じてみせるキズナ。
うるわも眉毛一つ動かさない平静顔で事の推移を見守る。エリスも何かがあったことに気が付いたのだろう、塞いでいた耳の手を下ろし、マレーナを不安そうな眼差しで見つめていた。
「ちなみにだけど、そのテロリストって」
腕を組んでニヤリと笑う。
「【ハンド・オブ・ブラッド】とかって言ったりしてない?」
エリスの肩がびくりと反応する。
「あ、あの……キズナ様、なぜそれを?」
「本当にそうなのですね?」
マレーナの問いを寸断するようにキズナの前に割り込み、うるわがマレーナの顔にずいと自らの顔を寄せた。
無表情の迫力に押されるようにマレーナは身体をすくませ、ゆっくりとだが確実にうなずいた。