第九十話・「それが私の矜持です」
「自分の不幸を呪うことなんて、断末魔のかわりにすればいいわ」
「生きていればこそ呪う不幸もあるとは考えませんか」
「不幸を呪うとか、そんなのが時間の無駄だって言うのよ。そんな時間があるなら、後退した分前に進みなさいよ。後退した分、前進するのよ」
どこかで聞いたような言い回しが、俺の頭の上に落ちてくる。
「失うものもなく、自由の大切さも理解できない荒唐無稽なキズナには、エリスの不幸を分かることなど出来はしません」
闇の中で鋭くきらめいた刃物。命の糸を断ち切ろうとするうるわのハサミは、またしてもキズナの手にとって阻まれる。ハサミの刃を右手に握りしめると、キズナはうるわの額に自らの額をぶつけにいった。骨と骨のぶつかる硬質な音が耳に痛々しい。しかし、うるわの表情は変わらなかった。キズナの頭突きにひるむことなく、平然とキズナの鬼気含む眼光を受け流す。
「だから不幸なエリスを守るっていうの?」
「そうです。それが私の矜持です」
再接近した二匹の獣はそれそれに水と油。互いに交わることのない自己の削り合いだ。
「守る……ね。もしも、守られるべき存在なんてのがいるとしたら、そう……少なくともここじゃないわ。少なくともこんな立派な場所じゃない。家も、国も全てを燃やし尽くされた廃墟の中で、生きたい生きたいと強く願いながらも、抗いながらも何も出来ずに一方的に殺されていく……」
わずかに陰ったキズナの顔は錯覚だったのだろうか。
「守られるべき存在がいるとすれば、きっとそんな場所よ」
勝手に暴走する馬鹿弟子と、主人を盲信する愚直メイド。
額をぶつけながら火花を散らせる二人の間から見えるエリスには、戦いを止めるだけの気概を備えていない。キズナに突きつけられた言葉の切っ先を恐れるあまりに、目をぎゅっとつむり、耳を塞いで怯えている。それはまるで、続く略奪行為に抵抗することも忘れ、ただただ蹂躙され、強奪されていくばかりの無力な人間の姿に似ていた。
「キズナの勝手な極論は彼譲りですね」
俺にちらりと視線を落としてくるうるわ。
「意志のない者が生きる資格なんて無い。さすがの私も、死にたがっている人間を救うことなんて出来ないもの」
「エリスが死にたがっているとでも言うつもりですか?」
「さぁ? でも、少なくともエリスを守りたいなんて感情は、私にはこれっぽっちも湧いてこないわね。コイツは……どう考えているか知らないけど」
うるわに続いてキズナもちらりと視線を落としてくる。
キズナとうるわ共々、ちくりちくりとわずらわしい視線である。まるで俺が悪いと言わんばかりである。
俺は火に油を注ぐとこはせずに、袂にある日記とエリスを交互に見やった。
泣きそうな顔で顔をしかめるエリスは弱々しい。外界の情報を遮断して自分を守ろうとする。キズナの言葉を否定することもない。うるわの意見に賛同するわけでもない。争う二人を置いて、自らの暗闇に閉じこもっている。
……エリスよ、お前は逃げるだけでいいのか。
お前の意志で恐れに立ち向かい、病気を克服しなければならない。手術の可否というのは、技術だけが成功に導くものではないのだ。生きようとする力が手術を成功に導くのだ。手を引かれてばかりでは、いつまでもお前は先には進めない。
それをどうやったら、お前に教えられるのだろうか……。
さ迷った思考と視線が、日記に書かれた見慣れた文字を捕らえる。
(日記の日付は……数日前か)
乗客も寝静まる薄闇の中、静電気に似た弾けるような痛みが肌を焼く。一般人の枠越えた二人のぶつかり合いがヒートアップする中で、俺は心の冷める思いをすることになる。
『大好きなリニオ先生へ』
俺達が再会する前の日付には、そんな題名があった。
ページには乾いた形跡がある。雨上がりのあぜ道のようにでこぼこした日記のページ。その一つ一つのでこぼこは、まるで雨が降ったように丸い。
それが涙の轍だと気がつくのに、そう時間はかからなかった。
更新が遅いですよね……。