第九話・「うぐ」
紙を受け取ったキズナは、首をかしげながら裏と表をしきりに確認している。
「なによ、これ。お金じゃないし……もしかして、あぶり出し?」
「あぶり出さなければいけないのは、アナタの無能さです。……いえ、あぶり出す必要もありませんか。顔に書いてありますし、それに」
無表情にわずかな嘲りが混ざる。キズナ、頼むからその程度の挑発に【川蝉】に手をかけるな。大人になるのだ。俺を見ろキズナ。まさに明鏡止水。何事にも動じることなく、さらりと流す大人そのものではないか。
「下等な実験動物とお似合いです」
もう一回言ってみろ、コラァッ!? 全国の同士達を代表して、俺がやってやるっ!
胸ポケットから身を乗り出して、シャドーボクシングを始める。貴様のような駄メイドなど、右ストレート、左フック、とどめのしっぽアッパーでぎゃふんだ、ぎゃふん……。
……。
……とまぁ、子供ならばこういう反応をするのだろうな。お、大人な俺は違うぞ。今のは、あくまで子供の場合の演技をしたまでだ。勘違いしないでくれたまえ。
「エリス、何を書いて……私にですか? では、拝読させていただきます……『うるわ、そんなことを言っちゃ駄目』」
無表情も主人の前では形無しか、明らかに困った顔をする。
「二枚目ですか? ……『謝って!』……エリス、いくら何でもそれは」
エリスがケースを空けて、ペンで書き込み、メイドに紙を渡す。二枚目の紙にはでかでかとエクスクラメーションマークが書かれていた。文字の大きさで声の大きさがはかり知れる。
「う、分かりました」
エリスが頬をふくらませてメイドをにらむ。残念ながら、ちっとも怖くはない。それどころか、可愛いと思えてしまうから不思議だ。まるで駄々をこねている子供みたいだぞ。
「大変申し訳ありませんでした」
メイドが深々と頭を下げる。スカートの裾を、これでもかと握りしめながら。
「ふん、さすがのアンタもご主人様には頭が上がらないわけね。いいわよ、私は寛大だし、許してあげるわよ。エリス、アンタも別に気を遣わなくていいわよ」
キズナがエリスの頭をぽんぽんと撫でる。首を引っ込めるエリスは少し痛そうだ。
「その不浄な手をどけなさい! エリスが腐ってしまいます!」
エリスはキズナが撫で終わると同時に、また綴り始める。
『うるわは、黙ってるの』
「うぐ……」
歯がみするメイドをよそに、小さな紙に何度も何度も書き付けて、キズナに差し出してくる。面倒であるに違いない。だが、その頑張りが心を温かくする。キズナの手元をのぞき込めば、次第にエリスの言葉が積み重なっていた。
『自己紹介しますね。私は、』『エリス・エラルレンデ』『そして、彼女が』
「待ってくださいエリス!」
自己紹介を書き付け始めたエリスを止めようするメイド。
『駄目!』『ちゃんと自己紹介するのっ!』
「エリス、私は納得がいきません。このような輩に自己紹介など」
不満をあらわにする間も、キズナの手に渡るエリスの言葉。
『彼女の名前は、うるわ』『ちょっと融通が利かないけれど』『私に遣えてくれる』『最高のメイドです』
「最後の文面だけ、私によこしなさい」
「は? ちょ――」
キズナがいきなり食いついてきたメイド……うるわに紙を奪われる。
「ふふ……エリスが褒めてくれた……最高のメイド、最高のメイド……ふふ、ふふふっ」
なにやら、こちらに背中を向けてぶつぶつと言っている。その口元は戦闘中の無表情が嘘かと思われるぐらいに、だらしなくにやけている。このメイド、本当は感情豊かなのではないだろうか。
「これで三百九十五枚褒められました……ふふ、残り五枚で……」
集めると何かもらえるのか? そそくさとポケットにしまうメイドに不気味さを感じる。
「丁寧にどうも。改めて、私はキズナ・タカナシ。胸にいるコイツが私のペットのリニオ」
ペットではない、師匠だ。
「どうしたのよ、エリス。驚いた顔をして」
哀切を称えながら、エリスはキズナに紙を差し出す。迷いながら、筆をためらいながらも差し出されたその紙には、今まで書かれた文字よりも頼りなく途切れそうな文字が並んでいた。
『リニオという名前は、私にとって』『大切な名前です』『リニオという名は』
『リニオ・カーティスは』
エリスが恐る恐る渡してくる。勇気を込めたのだろう。
『初恋の人です』
伏せられた顔は赤い。
『今でもお慕いしています』
エリスの恥じらいは、ほんのりと赤く色付いたさくらんぼ、と言ったところか。
「リニオが好きって……まさか」
キズナが俺に問いかけるような視線を向けてくる。何だ? 俺が初恋の相手で悪いか? いいか、俺は今では一介の可愛らしいハムスターに過ぎないが、人間の姿に戻ったならば超絶にいい男だぞ。世に言う二枚目というやつだ。……紙だけに。
「…………何もなかったなんて……嘘じゃないの」
(ん? 何か言ったか、キズナ。声が小さくて聞こえなかったぞ)
「何も言ってないわよっ!」
そっぽを向くキズナ。なんだ、いきなりどうしたというのだ。
『よろしくね、リニオ』
「チュウチュウ」
ふん、仕方があるまい。この姿で再会したのも何かの縁だ。よろしくしてやろうではないか。エリスには残念だが、キズナと同じく、お前は俺の守備範囲ではない。俺は豊満な女が好きなのだ。大は小を兼ね、小には出来ないことを大は出来る。大に出来て、小に出来ないことは山ほどある。この差は大きい。よくよく見ればメイドのうるわの方はなかなか見所があるではないか。大きいものが正義。大きさを前にすれば性格の難など、相殺して余りあるのだ。
『リニオ、かわいい』
紙と共にエリスが差しだしてきた指を握ってやる。おい、頬をつつくな、くすぐったいだろうが。俺は偉大なるリニオだぞ。……って、頭を撫でるなっ!
……ちょ、ちょっと嬉しいではないか。
『やわらかい』『愛らしい』『ぷにぷに』
「くっ……すでに四枚目……! 私でさえ、エリスからそのような褒め言葉なかなかもらえないというのに……!」
……ぷにぷには褒め言葉にカウントされるのか?
うるわから送られる鋭利な視線。少なからず込められる嫉妬。
『そうだ、ひまわりの種、好き?』
くれるのか!?
「ちょっと、うちのペットを買収しないでくれる?」
エリスと俺の間にキズナの手のひらが割り込んでくる。
「そうです。買収はいけません、エリス。エリスには私がいるでしょう?」
一歩踏み出すうるわ。なにやら個々に思惑が見え隠れしている。
『?』
紙の中央に大きく書かれた疑問符。エリス、その疑問はよく分かるぞ。
俺がうんうんと腕を組んで頷いていると、鼻先に冷たいものが落ちてきた。くしゃみをしそうになりながらも、鼻先に落ちてきたものを確かめる。手に広がるひんやりした感触。
「あ、雨」
雨を受け止めるように手を広げながら、キズナはひとりごちた。うるわもつられて空を見上げる。全員の視線が鈍色の空へ。
「エリス、本日は身体に負担をかけましたし、早めに宿を取って休まれませんと」
堰を切ったように降り出した雨は、身体を強く打ち付ける。路地裏を一気に湿気が覆い、立ち上がってきたかび臭さに鼻が曲がりそうになる。地面は雨を吸い込んで灰色に染まり、転がっていた空き瓶に雨水が流れ込んでいく。
「エリスは本来ならば絶対安静の身。この寒空の下では」
その空き瓶を蹴飛ばす甲高い音が、路地裏に反響した。音に訝しがって、うるわが会話をつなげながら雨空から顔を戻す。
「お体にさわりま――」
声の先。憂慮の先。
「す……?」
そして、疑問符の先。
まるで瀕死の子犬のように、雨の中にエリスが倒れていた。