第八十九話・「殺るか、殺られるか、それと同じよ」
あと一センチ、ペンが首に入り込めば、血が噴き出してもおかしくない極限の状況下で、キズナは平然と火に油を注ぐようなことを言ってのける。そのやりとりの中でどれほどの力のぶつかり合いが起きているのであろうか。ペンの先端だけが判断材料となるべく微振動をしている。
「それは、強者であるキズナの自論でしょう。皆がキズナと同じように強いわけではない。自分の身を自分で守れるわけではない。生まれながらにハンディキャップを背負った人間にとっては、スタートラインに立つことすら容易ではないのです」
込められるうるわ膂力が、ペン先を徐々にキズナの首に食い込ませる。キズナの中を流れていた温もりが、赤い流れとなってペンを伝う。赤がペンを握りしめるうるわの手に到達、手首を流れ落ちていく。
「かくのとおり、この世には守られなければいけない存在もある。守られなければ生きていけないか弱くも貴き人が存在するのです」
「違うわね」
痛みも、血液も、うるわの言葉も。
キズナはただの一笑に付した。
「それは負け犬の理論よ。負け犬が必死に考え出した都合の良い逃げでしかないわ」
ペンの先端が少しずつキズナの首から離れていく。ペン先には赤いぬめりが付着しており、それは間違いなくキズナの血液だ。キズナの命が危険にさらされていた証拠である。キズナはそれを気にする素振りも見せず、力でうるわの力を押し返す。
「それ以前に、自分は弱いですって大声で言ってるのと同じじゃない。救いようのない馬鹿だわ」
声には一片の迷いもない。
独裁者が演説において自らの陣営の勝利を疑わないように、キズナは自らの理念を決して曲げはしない。決して疑うことをしない。それはキズナがこれまでの人生で歩んできた道程であり、蓄積してきた経験でもあり、形成してきた確固たる信念でもあり、地面に立ち続けるためのアイデンティティでもある。
「スタートラインなんてのにこだわっている奴の方が、よっぽどスタートラインに立ててない。人は産声を上げた瞬間がスタート。障害を持っていようが、五体満足だろうが、【恩寵者】であろうがなかろうがね。人生に待ったとか、待って、なんてのはないわ。単純明快。殺るか、殺られるか、それと同じよ」
牙を歯肉までむき出しにする野獣。
「ねぇ、エリス、弱い者いじめって何で楽しいか知ってる?」
獣は病床で震える乙女に容赦なく牙を向けた。
「知らないわよね、守られる立場だもの。良い機会だから教えてあげるわ。アンタみたいに自分は弱いんです、勝てないんですって雰囲気出して、ああだこうだと言い訳しながら、無力さを垂れ流しにしてる奴……そういうのが最高に哀れで滑稽なのよ。そういうクソが地べたを這いつくばっているのを見下すのが楽しいから、優越感に浸れるから、弱い者いじめはやめられないのよ。弱い馬鹿が死ぬまで弱い馬鹿のままなのよ」
エリスが耳を塞いだ。
聞きたくないと嫌々と首を横に振る。キズナはその防壁を鋭い舌鋒で突き破っていく。
「うるわ、アンタもいつまでも甘やかしてんじゃないわよ。いい加減教えてあげなさいよ、この馬鹿な主人にね」
キズナの馬鹿力に押し戻されたペンを放棄し、身体ごと距離を取る。キズナの言葉を切り裂くように再接近すると、ハサミを滑り込ませた。
「私はエリスのメイド。エラルレンデ家に遣える忠実な僕です。それ以上でも以下でもありません。キズナが支離滅裂な理論武装をしようと揺らぐ信念などありません」
うるわの平然とした態度とは違い、エリスは耳を塞いで縮こまるばかり。書き付けることすら放棄して、必死に目をつぶっていた。キズナの弁を借りれば、それはいじめられるだけの弱い者。反抗することをしない逃避者の姿なのかもしれなかった。
「反吐が出る美談じゃない。でもね、ここでは私の言うことが正論。ご主人様の機嫌ばかり伺ってないで、いいかげんに現実を見なさいよ。アンタの言う守られるべき人間が、どこにいるって言うのよ。ぐずぐずと自分の境遇を恨んでばかりの馬鹿女ならいるけれど」
エリスをちらりと睥睨し、うるわに向き直る。
「自分の不幸を呪うことなんて、断末魔のかわりにすればいいわ」