第八十六話・「落とし物を届けに来たわ」
車窓に切り取られた白き月の光が、廊下を四角く照らしていた。
線路の脇に生える高い木々が光りをさえぎるときのみ、切り取られた白い月光は動きを見せる。白に走る影。それはまるで闇夜を懸ける暗殺者のように見えた。音もなく忍び寄る不吉な影。美しい月夜であるにもかかわらず、出てくるのは不吉を連想する表現だけだった。
「入るわよ」
寝覚めが悪くなりそうな乱暴なノック。うるわの許しを得てキズナが入室すると、ベッドには疲れ切ったエリスの姿があった。
金色の波を想起させる髪の毛は統率がとれておらず、所々が跳ねて乱れている。青ざめた唇は肌同様に生気を失い、視点もどこか中空をさまよっていた。流れ出す魔力をつなぎ止めるように、日記もろとも自らの体を抱きしめながら、ぶるぶると小刻みにふるえている。その様子は魔物の巣に差し出された生け贄のようでもあり、焼失していく森に取り残された小動物のようでもあり……どちらにたとえようにも漂うのは絶望感には違いない。
ウノというゲームをしていた時間が嘘のようなエリスの憔悴。
漂う空気は氷河期のように凍てついている。おそらく、この氷河期を乗り切れるほ乳類は存在しないのではないか、そんなあり得ない悪夢さえ見せるようであった。
ドレッサーには、苦い思い出の一部となり下がった録音型の魔法具がぽつねんと置かれている。
エリスの隣に控えるうるわが控え、紙の束にハサミを入れていた。病人に林檎を剥いてあげるように、エリスの傍に切った紙の束を置いていく。
その紙を見るやいなや、うるわが用意したペンをむしり取り、短い言葉を書き殴っては投げ捨てる。
薄暗闇に吸い込まれていく白い紙。海原にたゆたう小舟のようにゆらりゆらりと揺れて、やがて大海に飲込まれてしまう。
「落とし物を届けに来たわ」
キズナが一歩エリスに踏み出そうとすると、くしゃりと何かが潰れる音がした。キズナが足をどけて拾い上げようとする。
(どうしたキズナ)
胸ポケットからキズナをうかがう。興味を持って拾い上げようとしたはずなのに、拾い上げる体勢のまま静止してしまっているキズナ。
「なによ、これ」
(むう……)
そして、ようやく俺も気がついた。
日常ではありえない光景。例えるならば、屋内に降る雪。周囲に目を馳せれば、床はその大部分を白に染めている。薄暗闇に紛れて気がつくのが遅れたが、それは確かに雪化粧をした絨毯であった。
正確には、エリスの文字が綴られた紙の束。
あげたいのにあげられない、叫びたいのに叫べない声の欠片であった。
まずはじめに、ごめんなさい。ここ一週間は、家に帰ってから疲れ切って寝るだけの生活に終始しなくてはいけませんでした。こんなことは初めてです。今週もそうなるかも知れません。ああ……やりたいことが溜まっていく……。