第八十五話・「なんとなく、ただ嬉しいのだ」
「これは俺に課せられた人生の宿題なのだ」
「は?」
離れたところには金色のケース。俺は横目に見えた金色に歩み寄っていく。キャンドルを横切り、かの光りが照らし出すギリギリのラインへ後退する。
「そう思わなければやっていられないからな」
ケースをよく眺めれば、寄らなければ見えないほどの細かい擦り傷が無数に付いている。目に見える部分はほとんど新品同様なのに、こうして歩み寄ることで見えてくる傷がある。人もそれと同じで、大なり小なり傷ついて生きているのかも知れなかった。大きな傷がないからといって、全く傷ついていないことと結びつきはしないのだ。
「俺はきっと……百歩進んで千歩下がったのだ。今は、さながら差し引き九百歩を取り戻そうと奮闘中と言ったところか」
傷つけないように金色のケースを撫でてみる。無機質でひんやりとした表面が、俺の肌に染みこんでくる。
「いやいや、馬鹿な女を弟子に取ってしまったせいで、絶賛後退中かもしれないな」
俺の軽口にキズナは怒らなかった。背中を向けている俺に届く真摯な声。
「もしも……もしもその姿になってしまう前の自分に、戻れるとしたら、アンタは戻る?」
「時間軸を逆行する魔法がない以上、その問いは全く持って無意味な質問になるが……いいだろう」
キズナを見上げる。
「答えは、ノーだ」
キャンドルの火が風もないのに揺らめいた。
「俺はお前を弟子にしてしまったことを後悔しているが、お前と出会ったことを後悔しているわけではない。おそらくもう一度あのときに戻っても、俺はお前に話しかけてしまうだろう」
静寂はない。わずかな周囲のざわめきが、言葉と言葉を間断なく埋めてくれていた。
「そして、お前と同じ時間を共にするようになってしばらくして、また後悔するのだ。ああ、こんな奴を弟子にするんじゃなかった、とな。……あのときのお前は、それだけ俺の興味を引いたのだ。誇っていい。人間、一生に一度は大きな間違いをするものだなと痛感させられたよ」
「ふん、そんなこと言ったら私だって同じよ。……悔しいけど」
背中を向けたままなので分からないが、キズナが口を尖らせたような気がした。
「もういいだろう。話が脱線しすぎた。今の与太話は忘れるんだな」
「……そうね、アンタとこんな話するもんじゃないわね」
所詮は、雰囲気が作り出した産物に過ぎない、その場のムードにほだされる生娘ではあるまいに、俺も焼きが回ったか。
「結局……俺が言いたいことは、簡単なことなのだ。お前らしいとからしくないとかなど関係ない。お前はお前でしかない。その過程で間違えることもある、現に間違えてばかりだろう。俺はそれを否定したりしない。存分に注意はさせてもらうがな。あとはキズナ、お前が間違える中でも幸運の女神の前髪をしっかりとつかむことが出来るかだ。上手くつかめよ。去った後で気づいて追いかけても、女神は後ろ髪がないからな、幸運を掴むことは二度とできない」
「女神ももっとマシな美容室に行けばいいのに」
「最初から期待していなかったさ、お前に気の利いたコメントなどな。ま、俺の言いたいことは、チャンスの時期を逃してはいけないということだな」
「ふん、別に前髪しかなくたって私は一向に構わないわよ。どんなにその女神の足が速くても、私は追いついて、強引にこっちを振り向かせるから」
鼻を鳴らして勢いよく椅子を引く。大きく伸びをして関節をポキポキと鳴らす仕草は、たるんでいた自分の体に喝を入れるようであった。
「キズナ」
立ち上がろうとするキズナを引き留める。
「エリスがこのまま助からなければなければいいと……今もそう思っているか?」
キズナがテーブルの上においてある金色のケースを取る。
俺の網膜に美しい金色の流線が描かれ、それはそのままゆっくりとキズナの不敵な微笑みに吸い込まれていった。
「戻るわよ」
人差し指で、胸ポケットの口を開く。
少し首をかしげ、前屈み。俺が胸ポケットに入りやすい姿勢を取る。
「三歩後退したんだから、二歩ぐらい進まなきゃね」
お前はまず算数を勉強しなければならないようだな。それでは前進できていないぞ。
「何笑ってるのよ、ムカツク」
俺はキズナに教えなかった。
三歩進んで二歩下がる。その選択肢は、進むと戻るの二つしか選択肢がないように見える。しかしその実、選択肢はもう一つ隠されていることを。
「なんとなく、ただ嬉しいのだ」
「変なリニオ。……違うか、いつものことね」
……もう一つの選択肢。
前進も後退もしないという選択肢、その場に止まるという選択肢が存在することを。
俺はキズナにその選択肢を選んで欲しくない。進んだ道が正解でも、間違いでも俺は歩を進めて欲しかったのだ。経験して欲しかったのだ。何もしないことだけはして欲しくなかった。
許せよ、キズナ。
俺はお前にその選択肢があることだけは、決して教えない。