第八十四話・「……強くなれるの? 私は」
「喜べ、キズナ、人はそれを前人未踏と呼ぶ」
「嬉しくない……全っ然……嬉しくなんかないんだから……」
「そして、その道を歩みきったとき、お前は誰にもなにもなしえないことをなせる人間になれるだろうな」
「……強くなれるの? 私は」
キズナとの出会いがリフレインする。
――私は負けない。何者にも負けないんだもん。
あの戦火がくすぶる雨の日に、キズナは俺にそう言った。後に烈火となるだろう火種を瞳に宿らせながら。
俺はそのときの光景と、今のキズナの言葉をシンクロさせながら、思い出から台詞を引き出した。
「なれる。俺はお前を何者にも負けない女にしてやれる」
断定する。
曖昧な言葉では、人は人を信じることは出来ないからだ。力強い後押しと、裏付けによってのみ、人は赤子のように信じることが出来る。背後を振り返らず、後顧の憂いを絶ち、全速力で前に進むことが出来る。キズナには後ろを振り返って欲しくはない。つまらないことでとらわれて欲しくない。
キズナの進むべき方向、それは、間違いなく……弾丸が飛んできた方向なのだから。
「俺を見ろ、キズナ。地面すれすれの四足歩行にも慣れたものだ。人間は生きていく過程で二足歩行へと進化してきた。それが突然、四足歩行を主とする動物へと退化させられる。二足歩行をしようとすると、歩き出した赤ん坊のように何もないところでよろよろと転んでしまうのだ」
キズナが少しだけ顔を上げて、片目で俺の方を見る。俺と目が合うと、慌ててまたうつぶせに戻ってしまう。
見ろと言われれば素直に見る。その姿勢は嫌いではないぞ。
「それはもう……愕然とした。生きることを辞めたいと思った。今まで簡単にできてきたことが出来なくなるのだ……」
ハムスターとなってしまった自分のひげをとかし、腕を見、耳を後ろに倒してみたりする。ハムスターはしっぽがないのが常らしいが、なぜか俺にはあったりもする。ふりふりと左右に動かすと我ながら愛敬がいい感じだ。今ではこれがスタンダード。
「魔法使いにとって、魔法研究者にとっては、出来ることが全て。他人に出来ないことが俺には出来る。その優越感が何よりの矜持であった俺だ。その積み上げてきたものが一つ残らず瓦解する。これほどの辛苦は二度と味わいたくないと思った」
知らず声のトーンが落ちる。俺らしくもない。
「それが今は……よっ、ほっ、はっ!」
気分を払拭するようにアクロバチックに動き回る。テーブルの上を縦横無尽。両手の爪を出してテーブルに引っかけることで急加速。身体を進行方向とは逆に向けて急制動。心地よい慣性が俺の身体を揺さぶる。
最後に、最大距離をダッシュした後に後ろ足に力を込めてテーブルを蹴る。空中で身体を丸めて一回転前方宙返り。着地が見事に決まり、俺は荒ぶる猛獣のポーズを取ってみる。
例えるならば、虎が獲物を狙うポーズ……いや、虎は猫科の動物だったな、天敵をたとえに使うのはやめよう。怖いからではないぞ、あくまで敵ながら哀れだから使うのを控えようという意味だぞ。
「とまぁ……ゼェ……ハァ……この通りだ。思い通りに身体を動かすことが出来る」
息を切らしながら、キャンドルに背を預ける。
「珍しいわね。アンタの弱音なんて初めて聞いた。リニオは自分のことを……何も話さないから」
「取り立てて話すほどのことでもないからな」
ため息に似たものが出る。周囲の貴族達がささやき合う声にかき消されて、誰にも聞こえないため息。俺はキャンドルの灯火にあてられてしまったのだろうか。キャンドルは催眠療法に使用される小道具の一種だからな、その可能性も捨てがたいが……そんなものにあてられてしまうようでは俺もまだまだ若いとうことか。
俺が反省にも似たような熟考をしていると、キズナがむくりと顔を起き上がらせた。
「ねぇ……リニオ、どうしてアンタはそのままでいられるの? その姿のままで自由奔放に生きていけるのよ。一時は生きていることを辞めたいとすら思ったんでしょ? 死にたいとすら思ったんでしょ?」
真っ直ぐな目には強迫さが。締まった眉には強引さが。赤く引き蒸すんだ唇には強情さが。
それぞれにそれぞれの強さが込められていた。
迷いを断ち切ろうとする強者の目。戦いを前にするときに自然に現出するキズナの目だった。