第八十一話・「無様よ」
『キズナ、どうしたの?』
渡しかけの紙が乱暴にキズナによって払われる。キズナの手のひらがエリスの手を叩いた音が、高らかに廊下に響いた。読まれることなく宙を舞った紙が、視界の隅を漂う。エリスは悲しそうに表情を崩し、座ったままキズナを見上げる。エリスの肩からキズナを見れば、冗談のレベルを超えた眉のつり上げ方をしている。
「キズナ様、どうか落ち着いて下さいませ。たかがゲームではありませんか」
「外野は黙りなさい、殺すわよ」
容赦のない言葉に息をのむマレーナ。
『私が悪い』『としたら』『ごめんなさい』『キズナの気にさわること』『するつもりでは』『なかったの』『ただ、仲良く』『遊びたかっただけなの』
キズナを伺うように紙を差し出そうとする。キズナはその紙を受け取ろうとはせずに、軽く目を通しただけ。キズナにはたかれたエリスの手は赤みを帯び、痛みの程度を知ることが出来た。エリスはその痛みを顔に出すことなく、キズナに次々と紙を渡そうとする。ペンを取り、言葉を書き留める。
心の声を届けようとする。
『私が悪かったなら』『キズナに謝る』『本当に謝りたいの』『だから、教えて』『どこが悪いのか』『教えて欲しいの』
キズナはエリスの声を受け取ろうとしない。受け取られないエリスの声は、すぐにエリスの小さな手の中に一杯になってしまう。
手の中にあふれていくだけで伝わらない思い。いくらエリスが念じようが、感情を込めようが、結局のところエリスの声は紙の中にしか存在しない。キズナが頑として紙を受け取らなければ、それまで。エリスの意思は宙ぶらりんのまま放置されることとなり、むなしく朽ちていくだけ。
それでもなお、エリスは決してあきらめることをせずに、受け取ってもらえない紙を足下にこぼしてまでも、キズナに意思を渡そうと努力する。
「だったら聞いてあげるわ」
俺はそれをエリスの肩の上から見守ることしかできなかった。キズナの視線が俺をエリスの肩の上に縫いつけていたからだ。邪魔をしないで。止めるんじゃないわよ。刀で突き刺されるような視線の刃であった。
「何でリニオなのよ」
『どういう……意味?』
言っている意味が分からないという、再度の問いかけを意味する視線。
「何でコイツなのって聞いてるのよ!」
感情が極まったキズナは、理性よりも行動が先んじた。
一回り背の小さなエリスの襟元をつかんで引き寄せる。強引に鼻先を付き合わせる形にされたエリスが、苦しそうに柳眉を歪めた。つま先立ちになり、ようやく地面に足が付いているといった体勢。あまりにも乱暴な引き寄せ方に、俺はエリスの肩から転げ落ちてしまう。タイミング良くマレーナが受け止めてくれなかったら、廊下に頭を打ち付けてしまっていたところだ。
「こいつはアンタの好きだったリニオじゃないのよ! コイツは単なるハムスターなの! 私の師匠なのよ!」
馬鹿め。お前は自分が言っていることが矛盾だらけと言うことに気がついているのか? それと知っていてそう言っているのか?
……まあ、いい。前者にせよ、後者にせよ、お前は自分の持つ情報量と、エリスが持つ情報量の差異をとくと知れ。
エリスが恋した俺と、ハムスターの俺が同一人物だと知っているのは、キズナとうるわだけなのだぞ。エリスはそのことを知らない。
すなわち、現在ハムスターである俺とエリスの関係は、ただの動物とのじゃれあいレベルでしかない。エリスは俺をあくまで動物として認識しているだけで、元人間であった偉大なるリニオ・カーティスとは認識していないのだ。
第一、キズナよ、お前にとって過去の俺とエリスとの関係は、切って捨ててもいい些末ごとだぞ。
お前が何を馬鹿正直にムキになってエリスと張り合っているのかは知りたくもないが、大人になれキズナ。
『キズナは何を言いたいの?』『師匠って何?』『分からない』『キズナがどうして』『怒っているのか』
当然の質問が並べられては、手からこぼれていく。吹き荒ぶ空風にもてあそばれる枯れ葉のように、エリスの言の葉は廊下に散っていった。
『リニオはキズナのペット』『私の好きなリニオ先生とは』『当然、違うの』『だとしたら、キズナはどうして』『そんな顔をするの?』『私がリニオと楽しく』『一緒になって遊んだから』『仲良くしたから』『キズナは怒っているの?』
マレーナの手のひらの上にいても、キズナの怒気をひしひしと感じられる。相手がエリスでなかったら、迷わず殴り飛ばしているだろう。キズナは襟首を捕まれて顔を青ざめるエリスを突き放して、怒れるままに見下す。キズナに加減はなかった。尻餅をついたエリスは、勢いを殺しきれずに転がりそうになる。素早く様子を見ていたマレーナに優しく受け止められたまま、キズナを見上げるエリス。痛みを感じることすら忘れて、キズナに尋ねようとする。
金色のケースを開けて、言葉を綴ろうとする。
しかし、エリスの胸元にケースはない。
エリスは怒気を纏ったキズナに見下されても、終始、怖がることはなかった。それが、金色のケースがないと分かった瞬間、そこにあるはずのものがないと分かった瞬間、この世の終わりのような恐怖を露わにする。これほどまで表情に焦燥をみなぎらせるエリスを見たことはない。
どうやら金色のケースは、転んだ衝撃でチェーンが切れてしまい、廊下に転がってしまったようだ。マレーナの手の中にいた俺もまた、エリスを助けたマレーナによって放り出される形となり、金色のケース共々廊下の上。受け身を取り損ねた俺の身体が痛みに悲鳴を上げていた。
「無様よ。弱くて、ひとりじゃ何も出来ないくせに……」
慌てふためくエリスを見ながら、キズナは歯を食いしばる。鼻で笑うでもなく、踏みにじるわけでもなく、何かにを堪えているようであった。悔しがっているようにも、見えた。
「何も……出来ないくせに……」
キズナのうめきがもれる中、エリスはあきらめない。服が汚れるのにも構わずに四つん這いになってケースを探す。散らかったカードをひっくり返し、自らが書いた紙をひっくり返し、端から見れば醜い格好であるにもかかわらず、必死にケースを探そうとする。感情の代弁者を探そうとする。一度探したところも、再度探し直す。
ケースがなければ、エリスは誰にも感情を伝えることが出来ない。
ケースがなければ、エリスは誰にも意志を伝えることが出来ない。
ケースがなければエリスは……思ったことのなにもかもを人に伝えることが出来ない。
「エリス様、微力ですが私も探します」
捜索にマレーナも加わり、女二人、はしたない格好でケースを躍起になって探している。
その最中、キズナと目が合う。
「何よ……」
気圧されたようにキズナが半歩後ずさる。それに抗うように、キズナは眉をつり上げて言葉を放とうとする。
このときは何事にも負けん気の強いキズナの性格が災いしてしまった。
「エリス、アンタなんかと出会わなければ良かったわ!」
直情的で、思考力の乏しいキズナが招いた不幸なすれ違い……そんな風に簡単に割り切れたら幾分か楽だったろうか。
しかし、キズナの発言は、確実にエリスの背中を差し抜くように飛んでいく。声の速さは、俺にキズナを止める時間を与えてはくれなかった。
それはまるで、罪人の首と胴体を切り離す断頭台の刃が如く、エリスの動きを止めていた。ケースを探す手をぴたりと止め、エリスは小刻みに震え出す。
「キズナ、先程からゲームに盛り上がりすぎではないですか? 負けが込んでいるからと言って、そんなにも騒げば他の乗客に迷惑がかかるというもので――」
部屋の掃除が終わったのだろう。扉を開きながら廊下に出てきたうるわの台詞が、その場の光景に寸断される。
目が見開かれ、瞳孔が驚愕を飲込む。
うるわの目に映ったのは、カードの山、言葉の山の中に突っ伏すエリスの姿。
――発作によって身体を、魔力を食い尽くされるエリスの姿だった。
読んでくださった方、興味を持って下さった方、あけまして、おめでとうございます。久しぶりの更新となって申し訳ありません、年末年始に忙殺されておりました。これからは、更新も普段通り……二日に一回or三日に一回ぐらいには落ち着けると思います。至らない作者ではありますが、今年もよろしくお願いします。ではでは。
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