第七十六話・「俺の意志、理由」
「では、心の残りはありませんね。さようなら」
うるわの足の下で潰れるイメージが、俺の脳裏を横切った。グロテスク極まりない惨状だ。
「それが狙いか!? 急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずする加害行為――つまりは正当防衛か! だがしかし、見られたことに対する防衛手段として相手の生命を絶つことは有り余るほどの過剰防衛であろう!」
「リニオによって舐めしゃぶるように視姦された私の身体はもとより、蹂躙され侵犯された心は死ぬほどの痛みに泣き叫んでいます。アア、イタイ、アア、イタイ。もう命をもって償ってもらうより他ありません」
棒読みもいいところだ。下手な朗読よりも白々しい。
仕切り直しとばかりに、うるわが咳払いをする。
「分かっているでしょうが、改めて言っておきます」
ワンピース型の白いエプロンドレスが揺れる。首元のふりふりしたコットン仕様のヨーク、黒髪に乗る真っ白なレース製カチューシャ。エリスのメイドたる自負を持って、うるわが一歩踏み出た。つま先の丸い使い込まれた黒い革靴が、エリスを守ってきた年月を思わせる。
「私はあなたが嫌いです、リニオ・カーティス」
「分かっていないようだから、改めて言っておく」
倭国においてハムスターは、絹毛鼠と呼ばれるほど美しい毛並みをしていることで有名な生き物だ。日々の手入れのたまものである完璧に決まったヘアスタイルを顕示しながら、俺も負けじと一歩踏み出す。教えてやろう。ハムスターは前足と後ろ足で指の本数が違うのだ。
「俺はお前のような女は嫌いではない、うるわ。気が強く反抗心の強い女ほど、その感情が好意に変わったときの反動も大きいのだ。人それをツン――」
「黙りなさい、俗物ネズミ」
「黙れ、エロネズミ」
「……前足は四本で、後ろ足は五本です。肉球も、あります」
うるわとキズナのダブルパンチ。なぜか身体の構造を説明しながら今度は俺が黙り込む番だった。歯をすり切れるほど噛みしめてしまう。
何というか……哀れな師匠である。
「ごたくは終わりです。最後にあなたの意志を聞きましょう、リニオ・カーティス」
「いちいちフルネームで呼ぶな、リニオでいい」
「では、リニオ、答えなさい。エリスに対するあなたの意志を。その理由如何によっては……」
「分かっている」
自分の中でスイッチを切り替える。
キズナが派手に散らかした部屋の中。無言になれば、音は線路の上を走る列車の音だけ。
「俺の意志、理由……か」
エリスが使用していたベッドを振り返り、うるわに背を向ける。ちらりと視界に入ったキズナが複雑そうな顔をして俺を見ていた。焦り、怒り、不安、それらを均等に混ぜ合わせたような表情。キズナには珍しい顔である。
それらを置いて目をつぶれば、雑多な景色は容易に消えていく。ドレッサーに、ハイザーゼンについて講義するのに利用した様々な化粧品。キズナが足の爪の手入れに利用したキューティクルオイルや、クリーム、名前も知らない器具……。
余計な記憶を引き出そうとするきっかけを排除して、本題に目を向ける。
まぶたが作り出した暗闇は、追憶の過程を越えて、深く黒い霧へと変じる。足音が聞こえ、俺は奥へ奥へと走り去っていく少女を発見した。その小さく細い背中を一心不乱に追いかける。全力で疾走し、俺はその少女に追いつこうとする。
「ねぇ、そういうのもういいじゃない。なんでいちいち確認しなきゃならないのよ。分かったわよ、面倒臭いけど守ってあげるわよ。はい、私が言ってるんだからこの話はこれで終わり。いちいちそんなに真面目に考えないほうが気楽に物事を運べるってものでしょ。終わりなの、終わり!」
沈黙に堪えられなくなったのか、キズナが深く黒い霧を裂こうとする。目をつぶっているから面は伺えないが、おそらくあの三つの気持ちを表出させたような面をしているのだろう。
「キズナは黙っていてください。私はリニオだけに聞いているのです」
「だって、そんなんじゃ、そんなことしたらコイツは……!」
「何か問題でも?」
「問題なんか無いけど、問題が何かなんて分からないけど、なんか……なんかが問題なのよ」
尻込みするキズナの声は消えていく。
俺は黒い濃霧の中だ。なおも暗闇の最奥へ走り込む少女を追跡している。
彼女が目一杯に振る細腕を捕まえて、俺はこちらに少々強引に振り向かせようとする。少女がどのような顔をしているのかが知りたくて、そしてその顔を見て俺がどのような反応を示すのか。それは反射的なものであり、それこそがうるわの言う俺の意志であるような気がしてならなかった。
そして、俺は、少女を振り向かせた。
――『初めまして』『エリス・エラルレンデです』
そこに映し出された追憶は、二枚の紙。大きなベッドから、白く細い足を伸ばす少女。
楽しそうに紙を差し出す少女との邂逅であった。
――こちらこそ、初めまして。俺の名前はリニオ・カーティス。聞いたら二度と忘れられないだろう、偉大なるリニオ先生だ。まずは俺の名前を確実に頭にたたき込むように。
――『はい、リニオ先生』
頭を撫でてやった記憶が、当時の場景と重なり合って俺の目前に広がる。最上級の絹のような細い髪質が、手のひらに心地よさを染みこませた。
「エリスは……良い子だ」
初めての出会いを思い出し、俺はあのときと似た言葉をもらしていた。
金色の髪を撫でると、くすぐったそうに首を縮め、照れながら微笑んでいた。この世に降りた天使のような笑顔。まぶたの裏に焼き付いて離れない幸福の時間。今なお色褪せないポートレート。
「そんなエリスを」
……出会いはありふれていた。エド・エラルレンデの招待がきっかけだった。
俺とエリス。短期間の教師役。ただそれだけのことに過ぎなかった。
……再会もあっけなかった。馬鹿弟子の思いつきのわがままがきっかけだった。
俺とエリス。短期間の護衛役。ただそれだけのことに過ぎなかった。
「――俺は守ってやりたいのだ」
それなのに、なぜか俺は守りたいと口にしていた。
不思議なことである。自分のことであるのに不思議で仕方がない。いや、自分のことであるから不思議で仕方がないのだろうか。
人がいつの時代も自分への問いかけを繰り返すのは、人が経験でしか判断できない生き物だからだ。だから自問自答をする。培ってきた記憶、経験、知識を総動員して答えを導き出そうとする。
俺がエリスと培ってきた時間は短く、キズナに比べたら天地ほどの時間の開きがある。それでもこうして守りたいと思えてしまうのは、年月を経ても消えないエリスの鮮やかな笑顔が眩しいからだ。苦痛も、悲哀もある。それでもふいにこぼれる生きていることの鮮やかさ。それはかけがえのないものに違いない。
「これでは駄目か?」
目を開けるとエリスの寝ていたベッド。
「良い子だから、守りたい。全く……いい年をした大人にしては理由がお粗末ですね。ですが、よく分かりました」
違和感に振り返り、うるわを見上げる。
「……何を驚いているのです?」
「い、いや、なんでもないぞ」
驚くべきことにうるわは微笑んでいた。エリスに向けるような柔らかい笑顔で。
「では、決まりですね。遺憾ながら契約は続行です。賢明な師匠で助かりましたね、キズナ。契約を破棄されていたら、この部屋を破壊した賠償と、食堂車の暴飲暴食の料金を請求しているところでした。そうなれば、この列車の中で下働き決定。列車を降りる頃には、老婆になっているでしょう。ま、それでも私は一向に構いませんが……。……キズナ?」
キズナからの反応がないことをいぶかしがるうるわ。
「だから……そうなるから……嫌なのに」
首をかしげた先では、キズナが感情の断片をこぼしていた。
「私は……馬鹿リニオのそんな顔なんて見たくなかったのに」
爪を噛んで悔しがるような仕草。長い師弟の旅路でも、こんなに悔しそうなキズナを見ることはまれだ。ここ数日、キズナの気持ちの発露が異常に乱れている気がする。珍しい兆候である。
「どういうことだ、キズナ?」
「知らない。鏡でも見なさいよ、いい間抜け面が見られるだろうからっ!」
声を荒げると、キズナは大股でのしのしとドアから出て行ってしまった。何がいけなかったというのだ。ふむ、女心のわびさびをよく知る俺ではあるが、キズナのような人種は理解しがたいな。本能に素直に生きられると、知性はどうにも蚊帳の外になってしまう。
またもや頭痛を誘発し、俺は眉間を指で押さえる。
なんだか、悪い癖になってしまいそうだ。
「しかし……海老で鯛を釣るとは、まさにこのことですね」
「どういう意味だ?」
キズナを見送っていた俺に声が落ちてくる。
「少しの元手や、わずかの労力により多くの利益を得るという意味です」
「……」
うるわをにらみ付ける。
「冗談です。キズナではありませんし、説明は不要でした。単刀直入に言います。この魔法具にはリニオの声は録音されていません」
平板な声で、にわかには信じがたいことをさらりと言ってのける。
「……なに?」
「ですから、この魔法具にはリニオの声は録音されていないのです。もともとこの魔法具はエリスの持ち物ですから、私が勝手に使用することは出来ません」
「馬鹿な。では、俺のしたことは……!」
「はい、自ら正体をばらしていただき、ありがとうとだけ言わせてもらいます」
俺は愕然とした思いに床に突っ伏すしかなかった。
「な、なんということだ……」
泣いた。深々と、心の中で泣いた。