第六十九話・「アンタは、私の」
キズナは一段落を終えたところで、俺をじっと見つめてきた。
「……私にはエリスの過去なんて関係ない。手術で記憶がなくなろうが……実際なくなったっていいと思ってる。命が一番大事だし、むしろそうしなさいって位にね。エリスにはどれほどか知らないけど、所詮は他人の過去だし、私はちっとも痛くないし、苦しむこともない」
「それは本心からか」
悪いと咎めるわけではない。本心からだったとしてもキズナに幻滅するわけではない。俺は過去にエリスと出会って、わずかながらの教えを施した。少なくとも情はある。対してキズナは昨日今日あったばかりで、傭兵として雇われただけの身だ。他人と言っても差し支えない。感情の入る余地は少ない。それはそれでいい。
「本心……。わかんない。わかんないのよ」
キズナがぎりりと奥歯を噛む。柄にもなく色々と考え込んでいる自分にいらだっているのだろう。
「自分のことなのにか?」
「そうよ、悪い?」
「悪くはないぞ。お前が未熟なだけだ」
カチンと来たのか、キズナは爪の手入れに使ったクリームの容器を振りかぶる。だが、それは力なく下ろされた。そのままうつむくと前髪で目元を隠すキズナ。
「アンタなんか大っ嫌いよ。嫌みったらしくて、皮肉ばっかり言って、揚げ足取るだけが脳のインテリ馬鹿なんか」
恨み言も、トーンは低空飛行。胴体着陸の末に、今にも海の底に沈んでいきそうだ。
「結局……私は何が言いたいのよ?」
「その自問は自答してくれると助かるな」
歯切れの悪いキズナは珍しい。冷やかすのですら惜しいと思えてしまう。
「アンタは」
最初は小さく開いた口が、次の言葉では大きく開かれる。
「アンタは……私の師匠なの」
たっぷりの時間をかけて、キズナはぽつりととこぼした。
「エリスがアンタをどんな風に見ていて、アンタもエリスをどんな風に見ているかなんてことは、これっ――……ぽっちも興味もないし、本当に、ほんっと――……にどうでもいいことだけど」
顔を上げる。
躍動する前髪。強気の目元。
これまで経験してきた旅の困難さ。
いくつもの傷を、痛みを、経験として蓄えているような強い瞳。輝き。
「アンタは、私の師匠なの」
言葉が俺にぶつかる。
「他の誰のでもない。私だけの師匠なのよ。師匠は弟子を見てなきゃダメ。弟子と師匠っていうのはそういうものでしょ。私は、アンタがちゃんと師匠してるか見ててやんなきゃいけないの。見届ける義務があるの。それに、リニオはすぐどこかへ行こうとして、その度に猫に襲われるじゃない。私が守ってあげなきゃ、今頃アンタなんか猫の胃の中よ。でも、私がいれば守ってあげられるの、そうでしょ?」
誇りを胸にするように、胸ポケットを押さえる。
「だから、リニオはここにいなさいよ。私の成長をちゃんと見届けなさいよ」
キズナの言葉を起点に静寂が広がり、広がった静寂が時間を経て終息する。レールを走る魔法列車の音がいつの間にか蘇り、時計の振り子のようにしっかりと耳に時間を刻んでいく。
「今更だが――気がついたことがある」
立て続けに並べた言葉のせいで、キズナの顔は上気している。部屋の温度も少しだけ上昇しているようだった。俺の冷静な言葉は、その温度を少しでも冷やすことが出来るだろうか。
「お前は私の弟子だったのだな」
「……は?」
「いや、なに。単にこれまでのお前の行いを思い出せば、お前が俺を師匠であるとは、これっぽっちも考えていなかったようなのでな。今のお前の言葉は新鮮だったぞ」
冷静に、かつ少々意地悪に。その加減がとても難しい。キズナは俺のそんな態度を受けて、かすかに微笑んだ。笑みとともにこぼれる、白く美しい歯。
「言ってなさいよ。馬鹿」
ぶしつけな言葉を合図に、爪の手入れを再開する。
綿棒のような器具を使って、なじませたクリームを押し上げていく。
二分後、古い角質を落とす作業を終えたキズナの爪は、とても格闘技の好きな女には見えないほど綺麗に仕上がっていた。
「ふー……ふー……」
唇をすぼませて息を吹きかけるキズナ。終わりかと思われたが、どうやらまだらしい。仕上げにキズナは爪の表面にキューティクルオイルを薄く塗っていく。
鼻先をかすめる新鮮な香り。どこかハイビスカスを想像させた。
爪のオイルから漂っているのだろうか。高級品らしく香りが上品である。
手入れを終えたキズナの爪は、美しい艶を放っていた。ちまちまとした作業だったが、キズナは見違えた自分の爪を見て、満足そうに唇をたわめる。……男勝りの馬鹿弟子のくせに、女らしい顔をするじゃないか。とても食堂車で馬鹿食いしていたとは思えない風貌だ。
まぁ、キズナは普段の態度はともかく、黙っていれば薔薇の花のような女にも見え無くない。動き出した途端、華が無くなって茨に早変わりするが。
(まったく……馬鹿弟子が一丁前に)
キズナは俺のつぶやきには気がつかず、足の指を開いたり閉じたりしている。
暇つぶしに、俺は先程ぶつかりそうになった口紅のキャップを開けてみることにした。思いつきに理由はない。突然、出来るかどうか試したくなったのだ。作戦は単純明快。両足で口紅の下部を押さえて、両手でふたを取る。……これがなかなか難しい。鼻息荒く踏ん張ろうとするが、バランスを崩して口紅を抱きしめたまま倒れ込んでしまう。
うぬう、悔しいものがあるな。
組んず解れつの大乱闘が始まった。マウントポジションを取ったり取られたり、激しい攻防戦。長期戦も覚悟せねばならんか。
「……リ、リニオ」
俺の名が控えめに呼ばれる。俺は決着に水を差された状態のままで、キズナに目をやる。
キズナはなぜか頬を紅葉させて、明後日の方向を向いている。
「こっ、講義しなさいよ、私に何でもいいから教えなさいよ。聞いて……あげるから」
紅葉はより色づき、白を赤く染めた。
その光景に、俺は口紅にマウントポジションを取られたままで、きょとんとしてしまった。
今の顔だけは誰にも見られたくない。きっとハンサムが台無しだろうから。