第六十八話・「事実は小説よりも奇なり」
「過去の記憶が消えるの? 冗談みたいな、まるで小説か何かの嘘物語にしか聞こえないわね」
「事実は小説よりも奇なり。事実は時に小説よりも残酷で、非情だ」
「知ってる。第一、私は小説読まないし、そんなものが現実よりも面白いとは思えない。現実には小説なんかよりも興奮することがたくさんあるもの」
戦うことが楽しくて仕方がないキズナらしい答えだ。
「小説……広義の意味で本を読むことはお前の考えているような低レベルなことではない。お前が武と武のぶつかり合いを好むのと同じく、知と知のぶつけ合いを好む人間もいる。全ての物事に通ずることだが、自分の物差しだけで物事が測りきれると思わないことだ」
「リニオにも当てはまるじゃない」
「確かに。しかし、俺は誰よりも物差しが長い。他人には測れぬものも俺には測れるということだ」
「詭弁ね」
「そう感じることこそ、お前の物差しなのだ」
俺が待ってましたというように言い返すと、キズナは足下に転がっていた口紅を俺に蹴り飛ばしてくる。高速で顔面に大写しになる口紅。俺は精度良く蹴られたそれを大慌てで避けると、キズナはクスクスと笑っていた。
お前が珍しくしおらしくしていると気を遣ってやれば、この戯れ事だ。年中脳天気弟子め。
「あの子はそれを知っているわけよね」
話はキズナの片手間に続いていく。
「その……自分の記憶が手術によって消えて無くなるってこと」
キズナはドレッサーに並べた道具の一つを手に取ると、ブーツを脱いだつま先にあてがう。ファイルと呼ばれるやすりの一種である。銀で出来た平べったいファイルを垂直に親指の爪に当てると、キズナはゆっくりと爪を削り始めた。
のこぎりのように押しては引いてを繰り返すのではなく、一方の方向だけに繊細に引いて爪の形を整える。
爪の正面が終わると、次は角……といった風に驚くほどに細かい作業をこなしていく。
キズナの特性として自分で興味のないことにたいしてはとことん飽きやすい。しかし、興味のあることに至っては驚くほどの集中力と物覚えの良さがある。
少しはその集中力を他にも分けて欲しいものだ。
無駄に女らしい仕草で爪を整えるキズナ。左右二つに結わえた長い髪の毛が、ファイルを動かす動きに従うようにやんわりと揺れている。
俺が黙っているのをキズナは肯定と受け取ったのだろう。返答を待たずに言葉を続けた。
「ってことは……エリスの中のアンタの記憶が消えるってことも、あの子自身、当然知っているのよね」
俺はキズナが履いていたブーツを目に映す。
見たくて見ていたわけではない。映していただけである。
「知っているだろう」
「ふーん……ま、そんなことはいいわ」
目をつぶると、苦しみの中で手を伸ばし、助けを求めてくるエリスの蒼白が立ち上がって来る気がした。だから、俺は目を開けたままで、ただブーツを見るでもなく目に映していた。
「アンタとエリスがどんな出会いをしたのか、どんな風に先生と生徒していたかは分からないけど」
転がったブーツのつま先と靴底、そして甲とかかとには薄くて丈夫な鉄板が入っている。近接戦闘に秀でたキズナが好んで履くオーダーメイドの黒いブーツである。ちまたではエンジニアリングブーツ、トレッキングブーツという部類に属するものである。見た目は黒くて厳めしい。足全体を紐でがんじがらめにされている印象を受けるこのブーツは、女性用にしては無骨なものだ。
とても女性に好まれるとは思えない。
しかし、キズナは色々とこだわりがあるようで、よく腕の良い靴屋を見つけてはメンテナンスを依頼している。常日頃から貧窮しているというのに、キズナはオーダーメイドが好きだから困り種だ。
「エリスにとってアンタが初恋とか、今でも好きだとか、病気とか、記憶とか、手術とか……正直言ってもう、なんだか分からないし知りたくもないし、知ったところでいちいち覚えているのも面倒だし、急にいろんなことを聞かされても困るだけだし、考えるのすらムカツクし、今だってなんかムカムカするし」
キズナが言葉を覚えた手の子供のようにまくし立てた。
ブーツから視線を上げれば、キズナが唇を固く引き結ん日ながら甘皮をクリーニングしている姿がある。甘皮をやわらかくし、除去しやすくするためのクリームを爪の周りにぬり、優しくなじませているようだった。固くなった角質や、余分な甘皮を取り除く作業らしい。
まくし立てたと思ったら、作業に没頭する……忙しい奴だ。