第六十五話・「楽しい旅になりそうね」
「ああ、そうだ」
扉に手をかけたところで、男が思い出したように振り返った。
「あんまりそういう匂いをさせるなよ、馬鹿なやつはそれだけで吊られるぞ」
キズナに言ったようだった。キズナは男の発言に疑問符を揺らすが、やがて何を思ったか、腕をくんくんと嗅ぎ始めた。
「リニオ、私……やっぱり臭う?」
(馬鹿者が、奴が言っているのはそのことではないぞ。それにやっぱりとは何だ、自覚があったのか?)
男が言いたかったのはおそらくキズナが発していた殺気だろう。殺気と言うほど鋭利なものではないが、キズナが無意識のうちに軽い鬼気をぶつけていたのは分かった。あわよくば戦闘に発展すればいいな、そんな迷惑千万極まりないものをだ。
「そういう匂いをさせる奴は嫌いじゃない。どちらかというと好きなぐらいだ」
「だったら、少しゆっくりして行きなさいよ。食後のデザートぐらいおごるわよ」
顎をしゃくって挑発するキズナ。
「それは嬉しいが、止めておく。大好きなものは最後に取っておく性分なんだ」
「そんな一人っ子みたいなこと言ってると、大好きなものを食べる前に奪われるわよ」
手近なテーブルにあったフォークを手に取り、突きつける。
ポーズでも決めているつもりか?
「確かに俺は一人っ子だが……全ての一人っ子が、奪われるだけとは限らないことを頭にたたき込んでおくんだな」
「ふん、奪われたら、奪い返すってわけ?」
「違うな。俺の大事なものが奪われたら、相手の大事なものを奪ってやるまでさ。第一、全てが奪い返せるとは限らない。奪われたら、失ってしまうものだってある」
そこで初めて俺は男の中に秘める獣性を垣間見た。
双眸をぎらつかせ口の端をつり上げる男。
「格好つけるのはよろしいですが、忘れ物です」
ディアが男の座っていた席から一着のジャケットを取り上げる。男はそれを無言で受け取り、颯爽と羽織ると食堂車を出て行く。
漆黒のレザージャケット。
色という色の侵入を許さない絶対的な黒が扉の向こうに消えていった。
「お騒がせしました」
謝罪の言葉を残しながらも、表情は少しも悪びれた様子はない。形式上だけ深くお辞儀をしただけだ。
「いいわよ別に、全く気にしてないから」
「お騒がせしました」
二度機械的に繰り返し、ディアも男の背中に付き従うように出て行った。
痩身の男もそうだが、ディアという女もくせ者である。初見、うるわに似ていると思いはしたが、すぐにそうでないことが分かった。うるわは冷静沈着に努めているだけで、その実はエリスのこととなると極端に感情豊かで饒舌になる。
それに比べて、ディアという女は美しいが機械的で、ひんやりとした冷たさすら感じさせた。倭国にはかつて忍者という隠密を生業とする職業が存在したようだが、もしかしたらディアのような人間のことを言うのではないか、そんなことさえ考えさせる。
「キズナ様、お料理をお持ちいたしました」
事後処理を終えたらしいメイドが、フォアグラのソテーを手に持ちながらキズナを潤んだ瞳で見つめる。まるで遊んで、褒めてとねだる可愛い子犬のようだ。ウエイトレスとしてのそつない態度はそのままだが、キズナへの愛情に特化してしまったことが、今後業務に支障を来さないか心配になってしまう。
恐れることを知らないキズナの姿を、勇気と取るか無謀と取るかで態度が天地ほども変わってしまうことは、今の状態では気がつくまい。恋は盲目で熱しやすいのだ。それはキズナと長年一緒にいる俺だからよく分かる。
「気が利くじゃない」
快哉を叫ぶと、フォアグラのソテーにフォークを突き刺し、大口を開けて頬張る。美味しそうに頬張る姿は微笑ましい。キズナは子供のように頬にソースをつけながら、ぱくぱくと平らげていく。
いつもなら皮肉の一つでも言ってやるところだが……熱い視線でキズナを見つめるウエイトレスのこともある。水を差さないでやろう。気遣いが出来る師匠を持って幸せだな、キズナ。
「もぐもぐ……ごくん。楽しい旅になりそうね」
手に持ったフォークを手の上で器用に一回転させながら、料理を嚥下する。
「……お前の言う楽しい旅は、間違いなく平和な旅と同義ではないな」
キズナの不吉な予言が、どうか当たらないことを祈る。
キズナはニヤリと不吉な笑みを浮かべると、胸ポケットの俺を見下ろして、言った。
「そんな旅、退屈なだけよ」
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