第六十四話・「小うるさいですか? 私は」
胸ポケットからそろりと男を視界に映す。
男が纏うのは黒のレザーシャツ。下はダメージのあるジーンズであった。おおよそ、高貴な生まれのものとは思えないラフな風体ではあるが、それは見る目のないものの見識だ。実は服装の材質や細部が洗練されていて、全てがハンドメイドであることがうかがえる。
素人目には分からないであろう、目をこらしてようやく気がつくレザーシャツの黒。わずかな色むらがあり、手染めのものらしいことが推測でき、あえて皺感を出しているようだ。パンツのユーズドも自然に破れてしまったと言うよりは、ヴィンテージ加工が施されているといった方が正しい。企図されたラフさと言えよう。
この成年が実はそれなりの身分であることは一見しただけでは気がつくまい。俺のような博学者で無ければ。黒を基調にした服装の中でも、銀のウォレットチェーンが異彩を放っていた。
「さて、そろそろおいとまするか。俺がこんなところにいると知れたら、色々と小うるさい奴がいるしな」
「それは一体誰のことでしょうか」
男がぎょっとして振り返る。
そこには、まるで初めからそこに立っていたかのように、ほっそりとした長身の女がたたずんでいた。出で立ちは真っ白なワイシャツに黒いタイトスカート。どことなく有能な秘書を想像させる風体だが、ショートボブにまとめられた艶のある黒髪が個性を放つ。がたんごとんと車輪の音を響かせ揺れる車内の動きに、銀のイヤリングが同調しながら輝く。
「なんなのよ、次から次へと」
キズナのつぶやきは、いらだちを伴っていた。食欲は頭からすっぱりと抜け落ち、目の前に現れた女を忌々しげに凝視する。キズナは馬鹿だが、戦闘にかけては優秀な能力を持っている。手練れであるうるわを圧倒して見せたことからも明白である。
そのキズナが目の前の女が現れたことに気が付かなかったのである。
食欲に気を取られていたから?
あるいは倒した親子に気を取られていたから?
そのようなものは言い訳に過ぎない。
第一に、キズナは気がつかなかったのではない。気がつけなかったのだ。
俺やキズナを含め、この場にいた誰一人として……。
証拠と言ってはなんだが、存在感がないというには整いすぎている目鼻立ちが、それを如実に現わしている。これほどの女が近くに現れれば、他の誰よりもまず先に俺の美女レーダーが反応する。
その俺の美女レーダーをかいくぐるとは……何というステルス女だ。
「……ディア。お前って女は、どうして気配無く人の背後に立つんだ」
「小うるさいですか? 私は」
ディアと呼ばれた女は、表情一つ代えることなく、マイペースに男の言葉を迎撃した。
ディアの口撃に、男は言葉に詰まって閉口するしかなかった。
「分かった、戻れば良いんだろ?」
「小うるさいですか? 私は」
「……。そういうところが、小うるさいんだ」
男はげんなりした顔を隠しもせずに、キズナが入ってきた方とは逆の扉から出ていこうとする。男の向かう先は、一般客が利用する食堂車。さらにその先が一般客の利用する車両だ。