第五十七話・「……じゅるり」
「……じゅるり」
胸ポケットに容赦なくよだれを垂らしてくる馬鹿弟子。まるで滝のようだ。
食堂車に入った瞬間から漂ってくるかぐわしい香り。次々に他の金持ち旅行者に運ばれていく料理群。キズナは早々に唾液腺をやられてしまったようだった。かくいう俺も空腹の虫に責め立てられている。俺にとってのごちそうがひまわりの種であることに揺るぎはないが、たまには人間らしい食事がしたい。
許してくれ、俺の恋人達(ひまわりの種)よ。
「でも、お金ないのよね」
……。
「ご心配には及びません。このクラスの車両に乗車されているお客様には、乗車時にお支払いいただいた料金以上にお金を取ることはありません。全ての料理、サービス、一切が料金に含まれております」
「それってつまり……いくら食べてもタダってこと?」
「はい、おっしゃるとおりです」
ウエイトレスの肯定を経て、キズナが胸ポケットに視線を落としてきた。
「リニオ、これって夢じゃないわよね」
(夢ならば醒めないで欲しいな)
「もうこの際だから夢でもいいわ。もう一回聞くけど、料理は全部タダなのね?」
「はい、タダです」
にっこりと微笑む、ウエイトレス。値段のつけようがないグッドスマイルだ。
「それではキズナ様、こちらがメニューになっております。お決まりになりましたら、どうぞお声をかけになって下さい」
深々と一礼して下がっていく。
モデルのようにすらりとした体躯が、迷いない足取りでサービスに戻っていく。伸びた背中からは、自らの仕事に対する誇りと自信が立ち上っていた。
そういう女は例外なく美しい。流石、貴族が惚れ込むという評判は伊達ではないな。
「……」
メニューを開いて没頭しているキズナは、まるでメニューに食らいつかんばかり。
いつもなら浅ましいやつと罵ってやるところだが、空腹なのは俺も同じなので今は黙っておいてやろう。優しい師匠に感謝するのだな。
「キズナよ、ふと思ったのだがカトラリーの作法は心得ているのだろうな」
中央の通路を境に左右に配されたテーブルには、清潔感のあるクロースがかけられており、ナイフ、フォーク、スプーンなどのカトラリーが均等に配されていた。もちろん、キズナのテーブルにもある。
「知らないけど? だって私、倭国出身だし?」
「出身は関係ないだろう出身は。まぁ……安心しろ、どうやら、そういった気苦労はしなくて済みそうだぞ」
他の客に目を配れば、倭国人とのハーフと思われる貴婦人達が箸を片手に食事を楽しんでいた。
郷に入っては郷に従えという言葉があるが、サービスの面では別の話なのだろう。
格式や、形式を取り払って、慣れ親しんだ習慣で、思い思いの食事をする。そうして打つ舌鼓は格別であることは想像に難くない。せっかくのご馳走も、その土地の習慣だからと言って、肩肘張りながら難しい顔をして口に運んでいたら、しっかりと味わうことが出来ない。ここは多少なりとも目をつぶって、安心して料理の味を楽しんでもらおうという、鉄道会社の配慮なのだろう。
満場一致の意見とはいかないまでも、サービスを生業とする会社としては立派な心掛けだ。
「どうしたキズナ? まだ注文は決らんか?」
珍しく注文に迷っているキズナに催促すべく、胸ポケットから背伸びする。
「き、決らないというか、決められないというか……」
「種類が豊富なのは嬉しい誤算ではないか。選べるほど選択肢があるというのは恵まれている証拠。とりあえず主だったところから注文すればいい。料理の追加は食べながらでも考えればいいだろう」
「それでも決められないのよ……私には決められないのよっ!」
メニューを手に身もだえるキズナ。
脂汗を額に浮かべているキズナは珍しい。
「なぜだ?」
「……メニューが……読めない……」