第四十六話・「手術の代償……」
「早くこれを服用してください!」
汚れたメイド服と、額から流れ落ちる汗をそのままに、エリスの口内に抗生剤を落とす。
「またこのような場所で日記を書いていたのですか! 何よりもまず、ご自分お体のことを考えてくださいとあれほど……!」
目はすでに見えていないのだろう。
「エリス……エリス? 何を言おうとしているのです?」
干上がった大地のように真っ白な唇が、同じ形を作り続ける。
三文字。
長い言葉ではない。声に出すにしても短すぎる言葉。
うるわが唇の動きを見て、エリスが何を言わんとしているかを理解したのだろう。唇を強く噛みしめる。
「……リニオ、と。……あなたはまだその名を呼ぶのですか、エリス」
噛んだ箇所からは、血がしたたり落ちていた。
「エリスを過去に縛り付けるその名……。エリスを過去に縛り付けるその忌まわしき名を、今という現実を生きることよりも優先しようというのですか……! エリス、あなたを守るのは私です。生きていることすら分からない、心を分かち合う約束すらしていない、かつての先生よりも……。今までも、これからも……一生を賭してお仕えすると契りを交わした私が、あなたをお守りするのです。誰でもない従者であるこの私が!」
見えない視界の中で伸ばしたエリスの震える手が、俺を向いていた。
それを知るやいなや、うるわの表情が鬼のように変貌した。
「名前が同じと言うだけで、こんなネズミ一匹がなんだというのです……! エリスが求めるほどの希望は、このネズミにはありはしない。過去はエリスを救ったりはしない。救えるのは今を生きる者だけだというのに……!」
薬の作用か、眠りに落ちたエリスの顔に安らぎが戻る。うるわはその端整な顔立ちに安心し、優しく撫で始める。子供を見守る母親のように、頭の上を何度も行き来するゆるやかな手のひら。
「エリス、私はあなたがずっと悩んでいたことを知っています。手術をためらっていることを知っています。恐れていることを知っています。しかしながら、もはやそのような時間は残されていないのです」
夢に落ちていくエリスを見送ったうるわが、屋根の上でひとりごちる。
「手術の代償……」
歯ぎしりした歯の隙間から漏れだしてくるような、苦しい声。
「手術の性質上、術前の過去の記憶は全て消えてしまうことを……」
我が耳を疑うしかなかった。
「過去を取って命を落とすか、過去を捨ててゼロから生きるか、それしか残されていないのです。過去を失う恐れ、命を失う恐れ、その二つを天秤にかけていられる時間ももうわずかしかないのです」
残酷。
「……エリスにとって過去の想い出がどれほど大切なものなのか、私は知っています。心の中で今も色褪せぬ思い人の存在も……しかし、それによってエリスが手術をためらわれることを私は許せない。エリスの命はなにものにも代えられないものですから」
うるわの声に背を向け、俺はコールタールを歩くような足取りでその場を後にする。
(俺は何をした……?)
俺がした残酷。
エリスにかけてしまった声。自らを呪うしかなかった。
エリスが忘れていくはずだった恋心、消えゆくはずのリニオ・カーティスという人間の記憶。それがエリスを過去に繋ぎ止めておくことになろうとは。
「今はただお休みになってください。明日からまた、旅が始まります。今度は魔法機関車の旅ですよ。エリスは常々乗ってみたいとおっしゃっていましたね。きっと望まなくても忙しい旅になります。だから今は……夢の中でだけは全てを忘れて深く、安らかにお眠り下さい……。私の麗しいご主人様。エリスお嬢様……」
手術をしなければ、エリスは死ぬ。
過去を捨てなければ、エリスは死ぬ。
俺は声をかけてはいけなかった。口をつぐむべきだった。
声を聞かせるべきではなかった。
悔しさに背を押された俺の軽率な行動。自己満足の果ての残酷。
俺は……エリスを弄んだのだ。
「明日の旅が、最後の片道切符です」
頭上を覆う月。
主を気遣うメイドの決意が、月夜に吠えたように見えた。
興味を持って下さった方、読んでくださった方、ありがとうございます。
突然ですが、電車での移動は良いものです。ノイズキャンセリングヘッドホンを装備して、読書にいそしむ。誘惑の多い家での読書に比べたら、格段にはかどり、読書自体に没頭していられます。
先日、『馬鹿とテストと召喚獣』(ライトノベル)の6.5巻を持って電車移動をしていました。人が次々と乗り込んでくる中でも、ノイズキャンセリングの力は偉大で、他を気にせず読書に集中することが出来ましたが……ただ一つ、どうしても気になることが出てきてしまいました。
それは――挿絵のあるページが恥ずかしくて開けない……っ!!
と言うことです。私は自分でも思っている以上に自意識過剰で、他人の目が誰よりも気になる馬鹿な人間です。自分がそれほど他人の注意をひいているわけでもないのに、です。それでも、皮のライダースを着た一見イカツイ人間が、実はライトノベルの挿絵のページを開けずに焦っている……とは誰が考えるでしょうか。周囲にばれないように黒革のブックカバーをして最大限にごまかしながら、ページを開きます。挿絵のページがさしかかると速読率が数倍に跳ね上がり、うっすらと挿絵が透けて見えるようになる二三ページ手前では、内心ドキドキしながら本の角度を周囲の乗客の死角になるよう動かします。……なんて小さな人間でしょう。でも、私にとって【他人から自分がどう見えるか】、【第一印象】は、それほどまでに大事なものだったりします。そんな作者の小説ですが、これからも付き合っていただけると嬉しいです。評価、感想はもれなく作者の栄養になります。