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第四十五話・「こわい」

『怖い』


 叫ぶことも出来ず、痛みに打ち震えるしかできない少女は、身を削って言葉を刻みつける。

 思ったことをただ単純に殴り書く作業。痛みを叫ぶことの出来る普通の人間達は、思いっきり叫び助けを呼ぶことが出来る。エリスにはそれが出来ない。叫ぶ代わりに、日記に言葉を刻み込んでいく。それは命を削る作業であるに違いない。


『死ぬのは』『怖い』


 熱にうなされるように。生にすがりつくように。あるいは、自分の生きている証を書き付けるように。ダイイングメッセージではない、生きていることを伝えるメッセージ。エリスは息も絶え絶えになりながら、ペンを取り落としそうになりながら、彼女は日記のグリッド線を飛び越えた。

 叫びにならない叫びが、土砂降りの雨に降られた水たまりのような、激しい言葉の波紋を作り上げていく。


『死にたくないの』『苦しい』


 震える手で壊れかけの文字を刻んでいく。

 俺はこの場から離れることが出来なかった。

 助けを求めに戻るという選択肢が正であるという確信があったのに、俺はイリスの頬に身体をすり寄せることしかできなかった。広大なる星空の下で、必死に寂しさを慰めていたエリスを放っておくことは出来なかった。一人にさせることなど出来なかった。


『怖いの』『苦しいの』『もういやなの』


 地獄に引きずり込まれそうになるエリスの目は、すでに夢うつつをさまよい歩いているようだった。

 俺はただれそうなぐらいに熱くなったエリスの頬に我知らず寄り添う。


『助けて』『苦しい』『死にたくない』『怖いの』


 流れた魔力量は、通常の人間の有する魔力量をゆうに超えていた。エリスの苦しみのしわが月夜に影を落としただけでは、病魔は満たされないのであろう。

 魔力の流れ出る量を桁二つほど飛び越えてもなお、エリスの魔力は激痛を伴って引きずり出され続ける。

 いかに膨大な魔力を持つ恩寵者といえど、これ以上は死に至る。

 限界は目前に迫っていた。

 ……だというのに、俺は何をしている。

 身体をすり寄せて慰めるだけしかないというのか。それですら上辺だけの気遣いでしかないかも知れないというのに。エリスにはそれすら感じる時間すら当たられていないというのに。


『苦しい』『怖い』『怖い』『死にたくない』『助けて』『怖い』『助けて』『助けて』『苦しい』『怖い』『生きたい』『死にたくない』『怖い』『苦しい』『死にたくない』『怖い』『怖いの』『死ぬのは』『怖いの』


 めくられることのない日記の一ページは、重なり合った文字で真っ黒になっていた。

 白いページが黒に埋め尽くされていく。

 負の感情に埋め尽くされる白紙。


『こわい』『たすけて』『くるしい』『いきたい』『しにたくない』『こわい』『しにたくない』『たすけて』『くるしい』『しにたくない』


 削られていくエリスの思考。

 元々わずかしかない力すら、明らかに衰えていく。白が黒に汚されていくのは、希望が絶望に蹂躙されるのに似る。直視することが出来ないほどの闇。怨念じみているとさえ感じる死への予感。


『いきたい』『たすけて』『こわい』『しにたくない』『しにたくない』『こわい』『しにたくない』


 エリスの手からついにペンが転がり落ちた。

 痛みと、苦しさと、絶望と。

 その他暗澹とした闇に飲込まれて、ついには握る力すら奪われてしまう。自分を表現する術を奪われたエリスは、それでもうつろな意識の狭間で指先を動かし続ける。真っ黒な日記の上に指先を走らせる。

 指先はインクの黒に汚されてもなお、命を刻み続けていた。


『こわい』『たすけて』『くるし』『いきたい』『たくない』『こわ』『しにない』『たすて』『くるしい』『しにたない』


 身体が震えた。

 どうしようもなく震えていた。恐怖で震えたことはない。この瞬間でさえも恐怖で震えているのではないと言い切れる。死は日常茶飯事で、行くところに行けば路地裏にごろごろと転がっている。俺はそういう死をいくつも目にしてきた。時には眼前に晒されることもあった。なのに震えが止らない。

 この姿になって幾星霜、これほどの身体の震えを覚えたことはない。

 恐怖ではない、この震えはなんだ。


『すけて』『こわい』『したくい』『しにたく』


 そうか……分かった。

 これは、この震えは……。


『こ』『わい』『しにたくない』


 悔しさだ。


『いきたい』『たすけて』


 細指で描いた言葉の先に。


『たすけて』『どこ』『いるの』


 小さな、小さな、声が聞こえた気がした。

 ――……リニオ。


「俺はここにいる」


 俺の口を割って出た音声。

 顔を跳ね上げるエリス。救いを求めるように声のした方向を探す。そこにいるのは何の変哲もない一匹のハムスター。

 エリスは俺の左右や後方にも視線を動かして、声の主を捜し続ける。

 失った宝物。

 そこにないと分かっていても同じ場所に幾度となく視線を巡らせる。いて欲しいという願いを込めて、切に、切に探し続ける。

 目から涙がこぼれていることにさえ、気がつかないで。

 じわりとにじんだ涙は、頬を伝い、あっというまにほろりと落下する。痛みよりも悲しみが勝ったのか、声を必死に絞り出そうと口をぱくぱくと動かす。

 しかし、声は出ない。

 空回る息と、喉奥に引っかかるような喘鳴だけが虚しくこぼれ出る。俺の耳が聞いた小さな声は、俺の願いが作り出した幻聴に過ぎなかったのだろう。

 口の動きは、確かに俺を呼んでいた。

 まるで淀んだ水の中で、酸素を求めて苦しむ稚魚のように。

 リニオ。リニオ。リニオ。

 そればかりがぱくぱくと反復される。


「エリス! エリス! 大丈夫ですか!」


 エリスを探し回っていたのだろう、息を切らしたうるわが苦しそうにふせるエリスを抱き上げる。


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