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第四十四話・「怖い」

『今日のような日は悲しくなります。宝石をちりばめたかのように、ただただ美しい星空が満天に輝く日。無性に恋しくなるんです。心細くなるんです。リニオ先生の声が。普段の落ち着いた低い声、慌てたときの裏返る声……今では聞くことの出来ない声』


 月下の元で戯れる風が、悪戯に日記をさかのぼらせていく。


『今はもう、忘れてしまいそうな声。時間はとても残酷で、記憶は曖昧。心の宝箱に大事に秘めて、毎日のように取り出しては元の場所にしまっているのに、いつの間にか、リニオ先生の記憶がほんの少しずつ削れていってしまう。落ち着いた低い声と言っても、本当にこんな声だったのかなと確信できなくなってしまう』


 エリスの手元を見ていた俺の頭の上から、涙と共に鼻のすする音が落ちてきた。


『リニオの先生の声が聞きたい。たまらなく聞きたい。どうしてあのときこの魔法具がなかったのだろうと、悔やんでも悔やみきれません。もしもあったなら、先生の声を数え切れないほど録音できたのに……。リニオの先生の声が聞きたい。今度こそしっかりと先生の声を刻みたい。先生が教えてくれた勉強のように、一生忘れないように……』


 まるで風が日記を走り読みするように、ぺらぺらとめくれていく。

 右から風が吹けば過去へさかのぼり、左から風が吹けば現在へ近付く。

 読み手としては、いささかマナーに書ける飛ばし読み。


(……ん?)


 その中で、ふとボロボロの文字で書かれた一文が目に入った。


『からだのなかをねこそぎもっていかれるようないたみがまたわたしをくるしめます』


 壊れかけの文字列。

 句読点も読点もなく、ひらがなだけで走り書きのように書かれた文字列が、空恐ろしい。

 日付を見れば、ほんの数日前に書かれていたものだった。

 死期の迫った病人の骨を想像させる、細々とした文字。頼りない文字の連続。大きさも、形も崩れてしまっていて、確たる力強さを感じない。

 俺の背筋に冷たいものが這い上がってくる。


『からだのなかをねこそぎもっていかれるようないたみがまたわたしをくるしめます』


 今一度読んだ日記の文章がかげり出す。月が雲によって隠されたからであろう。

 ――だというのに、月はいまだそこで輝いている。

 ぞくりとした。

 全身の毛が逆立つ冷たい感触。

 慌ててエリスを振り返る。

 エリスの目が限界まで見開かれていた。

 瞳孔が開き、焦点が定まっていない。口からは声にならない苦悶が漏れ、首を吊られた罪人のように、身体をびくびくと痙攣させている。

 身体を支えることも出来ずに、エリスは日記を抱え込むような形で、屋根の上に倒れ伏す。

 俺はベビードールの胸元から投げ出され、屋根をごろごろと転がった。反転する視界。屋根から落ちる寸前で何とか踏み止まる。

 エリスは爪が剥がれてしまうそうな力で、屋根をかきむしっていた。すがるものもなく、一方的に病気に弄ばれている。

 圧倒的な暴力の奔流。加えられる暴力ではなく、引きずり出される暴力。

 全身から漏れ出る魔力は止まるところを知らない。


『からだのなかをねこそぎもっていかれるようないたみがまたわたしをくるしめます』


 髪の毛を引き千切られ。目玉を引き抜かれ。爪を剥かれ。皮を引き剥がされ。はらわたを引きずり出され。頭の中で回るのはそんな恐ろしい言葉の数々だった。


『からだのなかをねこそぎもっていかれるようないたみがまたわたしをくるしめます』


 慌ててイリスに駆け寄るが、ハムスターの力ではイリスを抱き起こすことはおろか、背中をさすってやることすら出来ない。

 エリスの喘鳴は、廃墟を抜ける風の音。

 崩壊の音。

 絶望の音。

 エリスは激痛に身体を跳ね上がらせながら、必死に転がっていたペンを取ると、日記にペンを走らせる。いや、走らせるという感じではない。綴るという感じでもない。

 刻みつけるという表現が正しい。

 エリスは定まらない焦点のまま、全身を使って体当たりで文字を刻みつけていた。


『怖い』


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