第四十三話・「振り返れることこそが人間らしさ」
(いくら理性の固まりである俺相手とはいえ、この光景は少々目の保養……いやいや、目の毒だな)
いつの間にか俺を見つめて、顔を上気させているエリス。手の動きはそのままで、熱っぽく俺の姿を瞳に映している。
瑠璃色の瞳が透明な膜を帯び、目尻にはうっすらと涙を溜めている……ってオイっ! 貴様、調子に乗っていつまでも!
うっ……くっ……そんな艶のある吐息を俺に吹きかけるな……っ。鼻がおかしくなってしまうではないか……心なしか脳の活動も遅延を余儀なくされている感じだぞ。
古来から英雄色を好むと言われ、幾人もの偉大なる王が色香に惑わされ、国を自滅に追いやってきたが……俺は今まさにそんな心境だ。
エリス、お前は傾国の美女なのかもしれんな……。
恐ろしや恐ろしや。
(ええい、いい加減に正気に戻らんか!)
俺がエリスに向かってじたばたと手を振ってみせると、エリスは憑かれているようなとろんとした目に生気を宿らせる。
次の瞬間には、恥ずかしそうに顔を背けてしまった。
(屋根の上を抜けていく風で少しは頭が冷やせるといいのだが。とはいえ、俺も少し身体が熱いな。やれやれ、エリスの心地に当てられてしまったか。自分の守備の範囲外からこうも見事に狙撃されるとは思わなかったぞ。やるな、エリス)
俺から顔を背けたまま、眉根をしかめ必至に何かに堪えようとするエリス。
俺は、そこに何かの違和感を覚える。何かを必至に紛らわそうとしているように見えた先程の光景。
夜空を見上げて馳せる思い。
日記に綴られた想い出の数々。
今日の出来事の顛末。
いくつもの事象から見え隠れするのは、単純だけれども根の深い感情。そう、エリスが何を思っているのかは想像に難くない。
言葉ないエリスからは何も聞くことは出来ない。けれど、夢中になって、あえて何かに没頭しようとする姿勢……その中でもとりわけ深遠な瑠璃の瞳だけが、行為そのものを嘘だと言ってしまっているような真実の光りを称えていた。
一時的接触を求め、俺をしつこく追い求めてくる姿。
日記に延々と書かれていた遠き日のノスタルジア。
それらを大事に大事に胸に抱きながら、それだけを見つめ続ける……それらは全て何かを包み隠そうとしているに過ぎない。
ただの、ごまかしだ。慰めに過ぎないのだ。
(後ろばかり振り返っていては、目の前の簡単な小石にすらつまづいてしまうぞ。人間の目が後ろについていないのは、きっと生物学的な進化論だけが理由ではないと思うのだ。振り返れることこそが人間らしさ)
俺らしくもないセンチメンタリズム。
俺も少し雰囲気にあてられていたのかもしれんな。
気がつけば、エリスの目尻に徐々にたくわえられていく雫。ついには決壊し、目元から伝ったひと雫は、俺の鼻先で瑞々しく弾けた。祭の後のようなむなしさが胸に感傷を与えるのだろう。
(しかし、いつかは前を向いて歩かなくてはいけないときが必ず来る。後ろを見ながら、前を見るなどというのは出来ない注文なのだぞ、エリス)
熱く燃ゆる想い。
はけ口はない。
我慢して、我慢して、コップの縁からぽろりと溢れ出る。
生きているとも知らぬかつての先生への思慕。
他の誰でもない俺への思慕だ。
目の前のハムスターがそれとも知らず、エリスは苦しむしかないのだ。
(ただ、今はまだ……そう強く言うこともあるまい。振り返ることでお前の苦しみが少しでも癒されるのであれば、いくらでも振り返るがいい。美しい過去の情景に酔うのもいいだろう。遙か昔から人々は酔うことによって自分を慰め、無理矢理にでも誤魔化してきたのだから。お前だけそれをするなと言うのも酷だろうしな)
目元を忙しく拭うエリス。
ついには見ていることが出来なかった。
人間の死に様や、醜い命乞いなど、馬鹿弟子との旅では見慣れている光景。
そんな俺でも、まだ背けられる目を持っていたとは……。
エリスの真っ直ぐな想いは眩しすぎる。
眩しすぎるのだ、エリス。