第三十七話・「ちゃぷちゃぷ」
「なにこれ……理解不能」
頬杖しながらうるわを白眼視する。その気持ち何となく分かるぞ、キズナ。
「聞こえていますよ、キズナ。では、理解できない愚かなあなたに教えて差し上げましょう。これがどういう事を意味しているか。いいですか? 注目すべきはここです」
力みなぎる足で立ち上がったうるわが、エリスからもらった『大好き』という紙を掲げる。
大好きの最後、『!』の部分を教師のように指でびしびしと指し示し、
「感嘆符です。大好きの後に感嘆符がついているのです。エクスクラメーションマークとも言います。これは大好きをさらに強調していると言うことです。ちなみに現在私が所持している三百九十六枚の内、感嘆符付きを生涯に十五度しかもらったことがありません。大好きは十度。両者が出会ったことは今回が初めてです。この大好きと感嘆符の合体技である『大好き!』は、大大好きに匹敵する強力無比な表現なのです。ご理解いただけましたか?」
「ふざけてるわよねっ!? こいつ絶対にふざけてるわよねっ!?」
俺に同意を求めるな。
愛は盲目とは言うが、盲目になると思考回路までおかしくなるのだな。うるわには哀れみの視線すらくれてやりたい。ぶつくさと文句を垂れ流しているキズナをBGMに、うるわが俺を見下ろす。
「ネズミと一緒にお風呂にはいることは甘んじて認めましょう。私はエリスに嫌われたくはありませんから」
それが本音か。
「ですが一つだけ条件があります。私も一緒にお風呂に入ります」
「ちょっとうるわ!」
慌てたのはキズナだった。
「何もアンタまで一緒に入ることはないでしょうが!」
「エリスに万が一のことがないように私がおそばで警戒するのです。ついでに私がエリスのお背中を流します」
それが本音か。
『分かった』『それで妥協する』
エリスの笑顔が弾ける。
「あー、もう! 勝手にしなさいよ! 私は寝るわっ!」
ふてくされて枕に拳をめり込ませる。
宿の備品なのだから、少しは大事に扱え。旅先で面倒事ばかり起こし起こされ、巻き起こし巻き込まれるお前にこちらは疲弊しきりなのだ。弁償や賠償も積もり積もって懐は貧窮の極み。頼むから大人しくしていてくれ。
『リニオと一緒に』『お風呂の中で』『ちゃぷちゃぷ』
「分かりました。ちゃぷちゃぷですね。湯船に溺れなければよいのですが」
なにか不吉な言葉を聞いた気がするのだが。
しゃがみ込んだエリスが、俺を捕まえようと手を伸ばしてくる。俺はその手をぎりぎりのところで回避して、窓際へ。
湯船の中だと? あまり口外したくないのだが、俺は泳げない。人間であったときは問題なく泳げたのだが、不甲斐なくもこの姿になってしまってからは泳ぐコツをつかめないでいる。湯船の中で不用意にも転落させられれば、俺はもれなく溺死のネズミになってしまう。これがホントの濡れ鼠……いや、なんでもない。
命を危ぶむ俺の内心を知らないエリスは、足取り軽く接近してくる。無邪気な笑顔が今はとても恐ろしい。
「なぜ逃げるのでしょうか、このネズミは。エリスとお風呂に入れるという、希有な幸運に巡り会ったというのに」
お前のご主人様が殺人未遂を犯そうとしているのだぞ。何とかしようとは思わないのか。
エリスに抗っていた頃の自分を思い出すのだ、うるわよ!
『お風呂で』『遊ぶの』
純粋な瞳で迫るエリスによって、じりじりと窓際へ追い詰められる俺。
逃げ場が徐々に無くなっていく。
『リニオは私と』
うぬぬ……ん? ……窮鼠ってこういうことを言うのでは?
ふと、不穏なことわざが頭をよぎった。
『ちゃぷちゃぷ、嫌?』
ちゃぷちゃぷ嫌ああぁっ!