第三十五話・「やなの!」
夜も深更。
『リニオと一緒に』
事件は起こった。
『お風呂入るの』
「エリス、私の読み違いならばよいのですが……これはお風呂、と書いてあるのですか?」
「確かにそう書いてあるわね」
キズナと共にエリスから渡された紙を見、俺に一瞥を投げたうるわの問い返しに、エリスがこくりとうなずく。
「この哺乳類とですか?」
お前も哺乳類だろうが。それとも何か、お前は俺が爬虫類にでも見えるのか?
ま、それはそれとしても……俺には幼女(体型)と風呂に入る趣味はないぞ。俺が好きなのは豊満を絵に描いた大人の女が好みなのだ。立っているだけで香ってくるフェロモン、大きく開いた胸元からややもすればあふれ出てしまう双丘、スリットから大胆にのぞくむっちりとした太もも、うっすらと汗ばんだ肌はまさに肉汁のあふれ出した最高級肉……。
いわゆる一つの肉欲。
かぶりつきたくなる衝動。原初から狩りを生業としてきた男の本能を直撃する肉への誘惑。俺が求めるのはそれなのだ。
エリスとお風呂?
論外も甚だしい。何の欲望も感じない。
仮にそれがうるわならば……愛嬌はないが整った顔だち、手のひらに余る胸、引き締まったくびれと太もも。お尻は少々小振り……ぎりぎり合格ラインと言ったところか。
「やめておいた方がいいと思うわよ、そいつエロネズミだから」
馬鹿弟子が俺の視線をなぞる。むむ、うるわを見ていたのがバレたか。
「キズナと同感です。衛生上良くないと思われます」
「菌よ、菌。きっついネズミ菌。鼻につく匂いよ。マーキングされるわよ」
待て、お前ら、俺が黙っていればいい気になっ――
「いいですかエリス、このようなことわざがあります。驥をしてネズミを捕らしむ。一日千里を走る名馬にネズミを捕らせるという意味で、要は有能な人につまらない仕事をさせる……人の使い道を誤る事のたとえです。ですから、エリスがネズミをフロに入れるなどという行為は――」
「飢えた狼の前に子羊を差し出すのと一緒、って意味よ」
「違います」
「……」
キズナ、ドンマイだ。
「とにかく醜い動物とエリスを一緒くたにはできません。さらに、こういうことわざもあります。千鈞の弩はけい鼠の為に機を発たず。千鈞とは価値の高い事を言い、弩は石弓を、けい鼠はハツカネズミを意味します。総合すると、こういう意味になります。ハツカネズミを捕るのに、強い石弓を使って射るようなことはしない。つまり、大志あるものは、みだりに軽はずみな事はしないというたとえです。エラルレンデ家の後継者たる者が、わざわざ小動物をお風呂に入れるなどという事をすれば――」
「心と体に一生ものの傷が残る、って意味よ」
「違います」
「……」
何というか……キズナ、ドンマイ。
「第一、ネズミの分際でエリスの高貴な柔肌に触れるなど、許されたものではありません。もちろん、身分的な側面だけでなく、衛生的な側面も含めてです。エリス、一般的にネズミは汚物と食品の区別なく往来すると言われます。体内、体表に有害な微生物を持っている場合もありますし、病気や病原菌の媒介となったり、屋内にイエダニを持ち込んだりもするのです」
「……リニオ、悪いけど私に近寄らないで」
胸ポケットから放り出され、床に無様に転がる。
これが……これが弟子のすることか!?
「見ましたかエリス、これがネズミの末路なのです。いかな愛玩動物であろうと人間(特にエリス)に害なす動物は駆除されてしかりなのです。これは信賞必罰なのです!」
……誰か、俺にドンマイと言ってくれ。
涙の準備はすでに万端。繊細なガラスの心は蹂躙されてヒビだらけ。俺の何が悪い。ネズミの何が悪い。それに俺はハムスターだ。愛くるしさはあれ、罪など微塵もないはずだろう。
だのに、だのに! うるわ、キズナときたら……。
俺が目頭に熱いものを感じていると、頬をぷくっとふくらませたエリスが乱暴に文字を書きつづった。
筆圧はかつてないほどに強い。書きためた束を一気に投げつける。
『やなの!』『やなの!』『やなの!』『やなの!』『やなの!』『やなの!』『やなの!』
『やなの!』『やなの!』『やなの!』『やなの!』『やなの!』『やなの!』『やなの!』
びっくりマークのたくさん書かれた紙をばらまいて、いやいやと首を振る。速記者もびっくりの速筆だ。
気がついたときには銀杏並木のように、頭の上をひらひらと紙が舞っていた。
「これが札束だったらいいのに」
キズナが頭上に舞う紙の一枚をとってつまらなそうにつぶやいていた。




