第三十一話・「そうですね」
泥だらけで戻ってきた俺達に、宿屋の主人は目を丸くしていた。あんぐりと開けた口には、いくらでも物が入りそうであった。その主人に負けないぐらい、目を見張ったのは意外にもうるわであった。ノックをしてエリスに入室の断りを入れるが、中からは返事がない。小さな疑問符を頭に浮かべながら、うるわは扉を開けた。
イリスはいない。
「ちょっとちょっと、肝心要のエリスがいないんじゃ、話にならないわよ」
「そうですね」
「そうですねって、アンタ」
肩すかしを食らったのはキズナである。エリスのためなら命すら諸手を挙げて投げ出すうるわ。そのうるわの落ち着き払った声に、キズナが納得できないのは当然である。ま、コイツは単細胞だからな。
泥で部屋が汚れるのも構わず、うるわは部屋の隅々まで調べ上げていた。エリスの髪の毛一本すらも見落とさない、そんな強い感情を内包しているようにも感じられた。
「エリスがいないってことは、あいつらの仕業じゃないの? ほら、なんて言ったっけシェイク・ハンドだっけ」
敵と握手してどうする。
「【ハンド・オブ・ブラッド】です、キズナ」
ベッドの中に手を入れて温もりを確かめる。さらに、ベッド脇にある机の上を調べたところで、どうやらうるわは確信に至ったようだった。
「もしも【ハンド・オブ・ブラッド】がここに来たのならば、迷わずこの場でエリスを殺害するでしょう。奴等の目的は金品ではありませんから、人質を取るなどと言う手段は無意味なのです。【ハンド・オブ・ブラッド】の目的は、あくまでエリスの命。部屋に争った形跡もない以上、エリスの無事は確認されたも同然。おそらくエリスは……」
言葉尻を三点リーダに隠すように、うるわは机の上をそっと指でなぞった。俺の記憶では、そこには音声録音型の魔法具があったはずだ。魔力を通すことによって媒体に音声を記録、再度魔力を通すことで再生という、魔法具。珍品名品のひとつに数えられるものである。
「てことは、無事なわけね。まったく大したご主人様だこと。うるわ、後でエリスを叱っておきなさいよ。こう言うのは罪を犯したときにしっかり叱っておかないと、いつまで経っても覚えないんだから」
犬のしつけか。それに、エリスはそこまで愚かではないぞ。人の振りを見ても自分の振りを直せないお前とは比べるのもおこがましい。
(おい、キズナ、そんなことはいいから、敵がエリスを狙う動機をうるわに聞け)
胸ポケットからキズナの肩に移動して耳打ちする。こうでもしなければ、キズナは理由を聞いたりしない。キズナはもらうものさえもらえれば、あとは戦いで終わらせればいいと思っている根っからの野蛮人だからな。俺がしっかりとフォローしてやらないと。
「めんどくさいわね……分かったわよ。あー、うるわ、敵がエリスを狙う動機は何なの?」
「……。復讐です」
コンマの沈黙の後にまろび出た声。
「復讐だって」
(馬鹿か、お前は)
言われたことしかできない、マニュアル人間め。人としてそれは悲しくないか? こう、何事にも積極的に興味を持て。そうすれば、この世の中というのは色々と楽しいことに溢れかえっていると言うことに気がつくはずだぞ。