第二十五話・「おごる倭国は久しからず」
「少しは胸ポケットに入れられている者の身になって欲しいのだが」
実は俺も泥だらけなのである。
帰ったら、腹ごしらえもいいが、まずバスタブにゆっくりと浸かりたい。丁寧に毛並みをそろえて、ひげに櫛を通さなければ、持って生まれたハンサムも台無しだ。ハンサムは状態を選ばずハンサムだが、俺に好意を寄せる女性陣にはベストの俺を見せてやりたい。魔法と同じく、努力、研鑽は怠るわけにはいかないのだ。
「楽しいじゃない泥遊び」
「泥仕合の間違いではないのか?」
そう言えば、泥プロレスリングという競技の観戦が大陸貴族の間で流行っていたな。
麗しい女性達が互いの身体をあられもない格好でいじめ合うという……ま、それは置いておいて。
「せいぜい、俺の顔に泥を塗らぬように頑張ることだ」
「もう泥だらけのくせに」
単純なキズナのことだ。見た目だけを言っているのだろうが、皮肉られているように感じてられてしまうのは、俺の疑心暗鬼だろう。ネガティブになるな、リニオ。
「あ、顔に泥を塗ると肌がつるつるになるとかならないとかってそういう意味?」
お前はもう黙れ。
「キズナ、真面目にお願いします」
「悪いわね、うるわ。ペットが泥だらけになったってぎゃあぎゃあうるさいのよ」
「言っても聞かないのであれば、行動で示すしかありませんね」
うるわの踏み込みに磨きがかかる。
素早い裏拳が流れるようにキズナの髪の毛を切り裂けば、ついで打ち出された蹴りをひじで受ける。びりびりと師弟共々身体が揺れた。キズナはひじを上手く入れ替えて、うるわの足を抱える。足を引き戻す時間も与えない素早い動作。軸は右足。うるわの足を抱えたまま三回転。強引に力だけでにうるわを投げ飛ばした。飛ばした先はブランコ。
「力任せとは芸がないな」
恐竜に見立てた滑り台、その階段の手すりをとっかかりにして跳躍。放り投げたうるわを追い詰める。
「うるさいうるっさい! 芸だけが力の全てじゃないわよ!」
俺に噛みつく前に、目の前のうるわに噛みついてみせろ。
「そのような欠如した集中力で……」
キズナが力任せに放り投げたうるわは、乱れた態勢を整えると、空中でブランコのバーをつかむ。そのまま大車輪の要領でバーを回転し、飛ばされた力を飛ばす力へと変換してみせる。目を見張るキズナ。
「私に勝てるとでもお思いですか!」
「思うわね!」
再激突。
うるわのパンチがキズナの頬を捕らえ、キズナの蹴りがうるわの腹部を捕らえる。両者痛み分けに終わろうかという空中のせめぎ合いは、なおも続く。拳と足をいくつも重ね合わせた末、うるわの足の裏がコンマ一秒早く、キズナを吹き飛ばしていた。
飛ばされる衝撃で、俺の脳みそが揺れる。下腹部がまるで潰れたようにきゅっとする。最悪のアトラクションに、嘔吐寸前の俺。
キズナは、公園に生い茂る樹木に背をぶつける。大きな音と共に、木から全ての雫が飛び散った。
「これで少しは真剣に取り組む気になりましたか?」
所々に泥を付着させたまま、うるわが悠々と進んできた。
カチューシャを直すと、メイドらしい控えめな動きで、キズナのつかまっている大木の下まで来る。何の感慨も浮かばぬといった風情でキズナのいるてっぺんを見上げてきた。
下からではパンツが丸見えではないだろうか。
いや、俺が心配することではないのだが、一応。
「別にいいじゃない。しゃべっても、しゃべらなくても結果は同じだし」
背中をぶつけた痛みを押し込め、太い枝につかまり幹に足をつける。
お前は蝉か。
「おごる倭国は久しからず。キズナの国を揶揄した言葉です。知りませんか?」
「知らないわね。知りたくもないし」
【ちょっと解説】
おごる平家は久しからず……平家物語の書出しに「驕れる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし」と、平家の衰亡を予言した文からきている。栄華を極めて勝手な振舞をする人は長くその身を保つことができない、の意。物語上、敢えて倭国としてあります。