第二十二話・「……ゼェ……ハァ……」
俺は小柄な身体を最大限に活かして、露天の多い市場へ。所狭しと品物が陳列されており、行き交う人も含め、逃げるには障害物が多い。活気は天候に左右されないようだ。雨上がりというのにこの状況。俺にとって好条件となる。
敢えて煩雑な場所を選んで通り、並べられている野菜や、果物の隙間をぬっていく。身体をひねり、数々のアスレチックフィールドをくぐり抜ける。猫もそこは然る者、負けじと柔軟な身のこなしで追跡してくる。生死をかけた逃走劇。
「小賢しいねずみだ――ウニャ!?」
リンゴの摘まれていた箱にぶつかったのだろう。人々の行き交う道に真っ赤なリンゴがぶちまけられていた。怒鳴る店主の顔が、さながら色付いたリンゴのようであった。
息を切らして一目散に逃げた先は住宅街。雨上がりの公園に入り、周囲に危険がないか確認する。安全であることが分かると、ブランコの上で大の字になる。
駄目だ、もう走れん。
「み、見たか馬鹿猫め……。俺はまだハムスターとしての経験値は低いかもしれんが、貴様のようなゆとり世代の猫に負けるほど落ちぶれていないぞ。せいぜい、お婆ちゃんとやらにご馳走でも恵んでもらうのだな……ゼェ……ハァ……」
「だいぶ息が上がってるわね、リニオ。必死になって探すほど一人じゃ寂しかったの?」
何という僥倖。馬鹿弟子の方から現れるとは。
「馬鹿を言うな、貴様こそ寂しかったのだろうが」
「そうね。いつもそこにあるものがないと、寂しくもなるわ」
真面目な顔のキズナと、勝手に嬉しいと判断する自分の顔の筋肉。
恨めしい。自分もキズナも。
「たとえそれが……どんなにウザイものでもね」
キズナ、破顔。
「今のリニオの顔、面白かったわよ?」
「黙れ馬鹿弟子! 俺がその気になれば、その減らず口を閉ざせるのだぞ!」
キズナが俺の隣のブランコに腰掛ける。左右二つに結われた髪の毛には、雫がいくつも付着していた。傘も差さずに出て行くからだ。無計画で無鉄砲。あきれて言葉もない。
「はいはい、分かってるわよ」
「はいは一回だ」
しっとりと濡れたキズナが足を組めば、見えそうで見えない絶妙のラインが現れる。恋愛に頓着のないキズナだからこそ可能な天然の誘惑。この所作に誘われ声をかけてきた男が何人痛い目を見たことか。
世の男性諸君よ。綺麗な薔薇には刺があると知れ。
「ねぇ、リニオ、大胆に寝そべっているけど、猫に襲われても知らないわよ」
「ふん、猫ごとき……俺が返り討ちにしてやるはずだ」
「文法がおかしいわよ」
な、何だ、考えただけで身体の震えが止まらないぞ。これが生き物の持つ第六感……危険予知という奴なのか。
聞いたことがある。
ネズミが家から一斉に出ていけば、その家に火事が起こるとか、地震で家が壊れてしまうことを予測しているとか。
う~む……動物とは不思議なものだな。ぶるぶるぶる。
「怖いなら怖いって言えばいいのに。また助けてあげないこともないのよ?」
「結構だ」
「ふ~ん……」
「なめるなっ! 俺を誰だと思っているのだ? 遠からん者は音にも聞けっ! 近くば寄って目にも見よっ! 我こそは偉大なるリニ――」
「あ、猫」
「助けてくれっ!」
ジャンプ一番、キズナの足下にすがりつく。そんな俺を胡散臭そうに見下すキズナの目があった。
「そ、その目は何だっ!」
「嘘よ。いないわよ、猫なんて」
「……し、知っていたさ。なんだ? 疑っているのか? いいか、勘違いをして欲しくないのだがな。今のは俺が緊迫の演技を見せてやっただけなのだぞ。お前がどんなリアクションを返すかと思ってな。ちょっとからかってやっただけだ。決しておれが猫に対して恐れを抱いているわけではないぞ、本当だぞ」
「宿屋で思いっきり九死に一生を得ていたけど、全部私の夢だったのかしら」
「あ、アレは……そう、相手の力量を計っていたのだ。古人曰く、敵を知り己を知れば百戦危うからずと言ってだな、攻防にギリギリ感を演出することで……ま、究極の所、俺程の猛者ならば、聞かなくとも撃退可能なのだが、それでも、まぁ、情報が多いにこしたことはなかろう? たとえ数匹で襲ってこようと、猫など俺が数秒でギッタギタのケチョンケチョン――」
「あ、猫」
「助けてっ!」
キズナのふくらはぎに飛びついていた。
しっぽを縮めて恐る恐る周囲を見回しているが、猫の姿はどこにもない。血に濡れた鋭い爪も、狂気に揺らめく炯眼も、狩りに適した柔軟な身体も、どこにも見あたらなかった。あるのは、公園を薙いでいくそよ風と、ブチ猫模様のようなまだらな水たまり群。
「リニオ」
「……はい」
木の葉からしたたる雫が水たまりに落ち、ぴちゃんと瑞々しい音をたてる。
「怖いんでしょ?」
「怖いんです」
キズナのふくらはぎを、力なくずるずると滑り落ちる。
何か今、俺の中で大事なものを奪われた気がした。
威厳か、主導権か。
……いや、両方か。
「ここにいましたか、キズナ。子供でもないのですから、もう少し行動に規則性を持たせて欲しいですね」
公園の入り口に立つのはうるわが、足音もなく歩いてくる。




