第十七話・「交渉決裂」
「交渉決裂。ていうか、こっちから止めさせてもらうわ。うるわがこんなに馬鹿だとは思っても見なかったもの。意地張って後悔しても遅いわよ」
乱暴にドアを閉めてどこかへ行ってしまう。お、おい! 俺を置いていくのか!
閉められたドアにつめを立てる。がりがりと傷をつけて抵抗するが、ハムスターの身体でドアを開けられるはずもなく。虚しい空気だけが俺の背中を流れていく。もしかして、俺は……いや、まさかな。キズナがいくら馬鹿でもそんなことをするはずはないだろう。しかし、あのキズナだぞ、もしかしたら、もしかしたら……俺は……す、捨――
「哀れ、捨てられた実験動物、といったところでしょうか」
捨てられてないぞ! 俺は捨てられてなんてないのだ!
「怒りに我を忘れての行為とはいえ、最低の人間のすることです」
う、うぬ……っ? おかしいぞ、急に目頭が熱くなって……。
ドアの大きさと堅さに打ち震えてしまう。人間の身体であったなら、蹴破ることも可能なドア。あまつさえ、ノブに手を触れることも出来ない。小さい、なんて矮小な存在なのだ俺は。
柄にもなくネガティブになりそうな心情を、ぶんぶんと首を振って追い出していると、手を叩くような乾いた音が部屋に響き渡った。
「エ、エリス……」
目に涙をいっぱいに溜めたエリスがうるわの頬を打っていた。うるわは立ち眩むようによろけ、打たれた頬に手のひらを添える。静かに鬼気をぶつけ合ったうるわとキズナのときとは違う、もう一つの静かな視線のぶつかり合い。エリスは動揺を隠せないうるわに、先程渡そうとしていた紙を差し出す。うるわは紙を見、エリスを見……を二度繰り返し、恐る恐る紙を受け取る。
果たして、そこに何が書かれてあったのか、俺の角度からは高すぎて読むことは出来なかった。内容はうるわの顔貌を見れば明らかだった。
「私では力不足だと……そう言いたいのですか?」
悔しさのあまりに噛んだ下唇から、一条の血が流れ落ちる。
「だから、あのような野蛮人の力を借りるべきだと、そうおっしゃるのですか?」
必死に首を振るエリス。
「では、なぜそのようなことをおっしゃるのですか! エリス!」
おい、急に大声を出すな。激情するうるわに、俺は肩がびくりと跳ね上がってしまう。全く……心臓が飛び出すかと思ったぞ。
一方で、うるわの声を受たエリスは冷静にケースを空け、意思を書き留めようとする。手のひらよりも小さい紙に細かい文字を書き綴り始める。思考し、執筆する一連のルーチンに、選択、吟味する時間を加える。声に出したら五秒とかからない言葉でも、エリスは焦らずしっかりと書き留める。
エリスからうるわへ、紙が渡った。
長い時間をかけて書き留められた言葉をうるわはしっかりと黙読する。
鎮静剤。不意に俺が思った表現だった。
うるわの内から漏れていた困惑が途切れ、慈愛に取って代わった時には、エリスの身体はうるわの腕の中に包まれていた。うるわが包んでいるようで、エリスがうるわを包んでいるに等しい行為。小さいながらもエリスの中に内包する友愛は母なる海を想起させた。
「私のような人間を従者ではなく家族と呼んでくださる……その心だけで私は」
抱擁を解いたうるわへ、エリスが次の紙を差し出す。
「身に余る言葉、感謝の極みです、エリス。これさえあれば多少の理不尽もかみ砕けます」
嬉しそうに微笑み、大切にポケットにしまい込むうるわ。
「ふふ……これで、三百九十六枚目です」
うるわよ、微笑みが日頃からこぼれるようだと素晴らしいのだがな。
「では行ってきます、エリス。申し訳ありませんが、しばしの間お待ちください」
こくんとうなずくエリス。小さな顔に大きく広がる爛漫な笑顔。
外の雨はいつの間にか上がっていた。