第一三話・「胸の小さい女には興味ないって言っていたくせに」
部屋の窓に打ち付ける強烈な雨粒が、黙考を手助けする。
静かなのはいいが、逆に静かすぎるというのも思考の妨げになる。その意味では、まるで打楽器のように窓が悲鳴を上げているというのは好都合であった。窓をすべる水滴は滝のようで、外の景色は輪郭を無くしてふやけている。灰色の街並み。そういえば、出会いはいつも雨だった気がする。この馬鹿弟子にしろ、エリスにしろ……邂逅はいつも灰色の雨。
――リニオ。
不意にそう呼ばれた気がして、俺は思考中の脳を停止させる。なぜが真っ先にエリスを見た。エリスと俺は謀ったように目が合い、しばしその瞳に見入る。青く透き通った瞳。ブルーサファイヤも霞むような純真な色。汚れのない白肌に、秋の稲穂を思わせる黄金色の髪の毛。
エリスは出会った頃から変わらない、が、変わるものもある。
着ていたフード付のコートは濡れたままハンガーに掛けられている。着替えの持ち合わせがなかったのか、素肌に纏うシャツは大きめ。男物であろう袖口は、長すぎてエリスの手の先に垂れ下がっている。真っ白なシャツからうっすらと透ける肌は瑞々しく、それでいて艶めかしい。全身びしょ濡れの代償か、下着は身につけてはいないようだ。昔と比べてややふっくらとした稜線を描く胸元は、双丘の頂が見えるような見えないようなギリギリの境界線を保ち、男心を大いにくすぐってくる。標高が低いのを理解してやっているならば末恐ろしい女だ。百戦錬磨の俺でなければ襲われているぞエリス。
「ペットのしつけはしっかりとして欲しいですね」
うるわの発言にどきりとさせられる。
「ん? いきなり何よ? ……ってリニオ? あの馬鹿いつの間に……!」
俺はエリスの手のひらの上へ移動していた。
エリスはにっこりと笑って、俺の手を取ろうとする。わずかに首をかしげ、よろしくね、と言いたげに指を持って握手をした。俺は仕方なくそれに応じてやる。エリスの人差し指と、俺の両手。握手と言うにはあまりにも大きな差。もちろん、そこにあるはずの言葉はない。
二度目の初めましてだな、エリス。
手と手を上下に振ってしっかりと挨拶を交わした。嬉しそうに笑ったエリスが目に眩しい。
「エリスのあのような笑顔、最近は向けられたことがないというのに……! 厚かましいねずみです。ペットは主人に似るものですね」
「あの馬鹿ねずみ……! 胸の小さい女には興味ないって言っていたくせに……っ!」
なんだか、禍々しくねっとりとした空気が部屋を充満しているが、どうでもいい。外は雨が降っているし、部屋の湿度も上がるとうものか。
……って、エリス、指で頬をつつくな。二枚目が台無しになるであろう。おい、こら、やめろ。
つついてくるエリスの指を、俺がしっぽではじく……という作業が、しばらく繰り返される。足を踏みならして、ぷりぷりと怒った演技をしてみせると、エリスが引き下がる。
よしよし、ようやくか。今日は色々あって疲れた。可愛い俺で遊んだ報酬として、心地よい手のひらのベッドで一眠りさせてもらおうか。人間の身体と違って、この身体は色々と健康管理が大変なのだ。睡眠は健康への近道だからな。
……ごそごそ。ごそごそ。
何かを探る音が、目をつぶった俺の隣から聞こえてくる。
エリスが空いている左手で何かをつまんで俺に差し出してくる。俺はかぐわしい香りにたまらず目を開けていた。
……ん? ……おおっ! これはっ!? 驚天動地な魅惑のラインを称えつつも、決して肥大化することなく、太陽の光を浴びて健康的に育ち、なおかつ左右対称、中身がぎっしり詰まった高品質かつ艶やかなひまわりの種ではないかっ! なぜ、なぜエリスがこのようなレアものを!
俺は一瞬のうちに目が覚めてしまっていた。エリスが空いた左手で差しだしてくる。食べる? とでも言いたげな表情だ。もちろん、俺は手を伸ばす。
……だが、寸前のところでエリスがひまわりの種をお預けにした。
む……どういうつもりだ、エリス。頬袋をふくらませて不満をあらわにすると再び種を差しだしてくる。ようやく観念したみたいだな。人間、素直が一番だ。
……ひょい。またしても種をつかむ寸前に遠ざかる。むむ……。
悪戯な笑みを浮かべているエリス。天使のように愛らしく、馬鹿な大人ならばころりとだまされてしまいそうな笑み。瑠璃色の瞳に、悪戯心の灯火がともる。金髪が、踊る心情と同調して楽しそうに揺れている。
……コイツ、俺を挑発しているな?
エリスがゆっくりひまわりの種を近付けてくる。
なめるな。ここは一時的に興味のない振りをして、あきらめたところを背後から一気に急襲してやる。題して、だるまさんが転んだ大作戦だ。倭国ではわりとポピュラーな遊びである。押して駄目なら引いてみろ。故人の偉大なる教えを実践するのだ。エリスのため息。悲しげな吐息が俺を包み込む。そろそろか……? いや、急いては事をし損じる。今は我慢の時だ。
ひまわりの種の気配が遠ざかっていく。あきらめたような気勢。
今だっ! チャンスは今しかないっ!
種を気にならない風を装っていたのを一変させて、狂気の瞳でダッシュにかかる。
――種っ! たあああああねええええっ!
刹那、エリスの瞳がきらりと光る。小悪魔じみた笑みがこの上なく可愛く、憎たらしい。俺はそこに敗北を悟った。しかし、敗北するからと言って、今更引き下がれない。兵士は戦うものを指す言葉。たとえ自軍が劣勢であろうとも、敗北が必至になろうとも、兵士は戦うことが宿命なのだ。戦わない兵士は兵士ではない。戦うからこそ兵士として存在できる。いわば戦闘こそがアイデンティティー。逃走という行為を忘れたバーサーカー、それが今の俺だ。そこに敵がいる。愛したい者(ひまわりの種)がいる。戦う理由はそれだけで十分だ。
それ以外に、何がいる?
否、何もいらない!