電車内で、突如、ショルダーバッグを肩に下げている女性が怒り始めました
電車内で、突如、ショルダーバッグを肩に下げている女性が怒り始めました。怒りをぶつけている相手は男性で、その男性はとても困った表情を浮かべていました。
こう聞くと、大抵の人は「あ、きっと痴漢をやったのだな」と考えるのじゃないかと思います。ですが、僕はそうは考えませんでした。十中八九、濡れ衣で男性が困っていると考えたのです。理由はシンプルです。怒っている女性の声に心当たりがあったからです。
「あんた! なにショルダーバッグを押して来ているのよ! さては痴漢ね!」
そうその女性は声を上げています。ショルダーバッグを押したくらいで痴漢呼ばわりはちょっと酷いです。
何処でもああなんだな、あの人…… と僕は思います。スレンダーな体型。特徴的なポニーテール。いかにも気の強そうな外見。ショルダーバッグはちょっと似合っていません。
実は彼女は、僕の住んでいるアパートの部屋の隣の住人で、なんだかんだと関りがあるのです。いえ、“巻き込まれている”と表現した方が正しいかもしれません。ちょっとばかり性格に問題があったりなんかしていましてね、彼女。
僕はできるのなら関わり合いになりたくはなかったのですが、このままでは被害者の男性が不憫だと思い近付いて行きました。
「あのー…… 何があったのですか?」
「あなたは?」
「一応、その女性の知り合いです」
嫌ですけど、本当に一応は知り合いです。
すると、濡れ衣を着せられそうになっていた男性は“救世主が現れた!”とばかりに「なんか、この人が突然に怒り始めて」と訴えて来ました。
それに対し、「あんたがバッグを押して来たのでしょー!」と彼女は文句を言いました。取り敢えず、彼女は置いておきましょう。
彼はサラリーマンなのかスーツを着ていて、マナーを守ってリュックを前に抱えています。それに対してポニーテールの彼女は、ショルダーバッグを脇に抱えていました。
リュックを前に抱えると、後ろにいる人に迷惑をかける事はなくなりますが、当然ながら前の視界が悪くなります。
「あのー…… 単に電車が揺れて、リュックがバッグに当たっちゃっただけなのじゃないですかね?」
状況から考えて、普通はそう判断して終わりでしょう。ただ一つ、この場合は大きな問題がありました。彼女は普通ではないのです。
「そんなのそっちが気を付けなさいよー!」
そう怒鳴りました。
うーん……
「あのー…… ショルダーバッグを脇に抱えていたら、後ろにいる人に迷惑がかかるでしょう? 電車のアナウンスとかでも、よく“前に抱えましょう”って訴えていたりするじゃないですか。それが電車内のマナーだって」
すると、「それはリュックの話でしょう!?」と彼女は反論をして来ました。
「いやいや、あのね、リュックを後ろに背負わないってマナーの重要なポイントはリュックかどうかじゃなくて、後ろにいる人の迷惑になるかどうかですよ。車内のスペースをそれだけ圧迫しちゃうんです。
その理屈はショルダーバッグでも同じでしょう? 後ろにいる人にぶつかっちゃうんだから」
そう説得を試みましたが、やっぱりと言うかなんと言うか、彼女には理屈は通用しなかったみたいです。
「そんなの知らないわよー!
あんたお隣さんのくせに、あたしの敵になろうっての?」
なんで隣に住んでいると、味方をしなくちゃいけないのかがまず分かりません。まぁ、知り合いの義理でこの人が他人に迷惑をかけないようにしているってのも充分に“味方”の範疇に入るような気がしないでもありませんが。
「あのー…… そもそもちょっと押されただけなのですよね? 電車は揺れますから、それくらい起こりますって。分かりますよね? 普通」
彼女は普通じゃないのですが。すると彼女は、なんだか妙に得意げな表情でこう述べて来ました。
「“ちょっと”じゃないわよ! かなり強く押されたんだから!」
それに被害者の男性は反論しました。
「僕は押したつもりなんかありません!」
多分、抱えたリュックが電車に揺られて当たっただけでしょうから、本人には“押した”という感覚すらなかったのでしょう。
しかし、彼女は納得のいかない表情です。
「冗談じゃないわよ! あたしはビックリしちゃったんだから!」
ショルダーバッグは、まぁ、脇の下にぶら下げますから、押されたのだとすれば、触れるのは脇腹とか脇とか敏感な部分です。だから彼女はビックリしたのでしょうが、それだけなら流石に彼女でもここまではむきにならないでしょう。
でも、多分、被害者の男性も嘘を付いてはいません。そもそもショルダーバッグを押して喜ぶようなレベルの高い変態なんて聞いた事がありませんし。
……もしかしたら、女性陣には分からないかもしれないので、一応強調しておきますが、そんな事をしても気持ち良くともなんともありませんからね!
「――分かったかもしれません」
と、僕は言いました。二人が僕を見やります。
「分かったって何が?」
僕はポニーテールの彼女を見やるとこう言いました。
「あなた、テコの原理を知らないでしょう?」
すると、馬鹿にされたと思ったのか(まぁ、馬鹿にしたのですが)、「何言っているのよ? テコの原理くらい知っているわよ!」と彼女は憤慨しました。
「知っているのなら話が早いです。恐らくテコの原理の効果で、力が強くなってしまったのですよ」
それに被害者の男性は「ああ」と声を上げてうんうんと頷きました。
が、彼女には通じていません。
「何言ってるのよー! テコなんてここにはないじゃないのよー!」
「いえ、テコの原理は“原理”だから、当たり前ですが、必ずしもテコは必要ないのですよ。要は力×距離で求められる仕事と同じになるように力が強くなるって事で…… まぁ、仕事の原理です」
「仕事って何よー? あたしだってちゃんと働いているわよ!」
うーん。通じねぇですねぇ……
「例えば、1の力でショルダーバッグを10センチ移動させたとするでしょう? ショルダーバッグの紐の円の中心近くで、それでショルダーバッグが5センチ移動したとすると、力は2になるのですよ。2倍ですよ?
仕事の原理に従うと、そうなることが導けるのですね。
脇って敏感ですから、ちょっとリュックに当たっただけでも、充分に強い力に感じるのじゃないですかね?」
「何言ってるのよ! そんな魔法みたいな事が起こるはずがないでしょーがー!」
「あなた、やっぱり、テコの原理を知らないじゃないですか!」
それから僕は、面倒になったので、「論より証拠です。えい!」と言って、目の前で彼女のショルダーバッグをちょっとだけ押してみました。すると、テコの原理…… 仕事の原理で力が増幅され、脇に刺激が加わった彼女は「おおう!」とそんな声を上げました。それで全てを察したのか、のけぞった態勢のまま固まった表情がみるみる赤くなっていきます。
電車内にいるたくさんの人が、目立ちまくっていたそんな彼女に注目をしていました。
「多分、あれでしょう? ショルダーバッグを買ったのは初めてだったのでしょう? だから、知らなかったのですよね?」
憐れに思った僕はそうフォローを入れます。
ショルダーバッグは前に抱える方がマナー的に好ましい事くらいは察して欲しかったですが。
それを受けると、「そうよー!」と、彼女は大声を上げました。誤魔化したつもりなのかもしれませんが、却って傷口を広げてしまっています。
「普段はナップザックで歩いているわよ! その方が楽だし、可愛いしね! でも、少しは大人の女を気取ってみたかったのよ! だからショルダーバッグを初めて買ってみたのよ! それでいい気になっていたのよ! ショルダーバッグを使うのに、そんな掟があるだなんて知らなかったのよー!」
なんだか彼女は泣き始めてしまいました。
ショルダーバッグで、大人の女が気取れるとは知りませんでした。
「大変ですね……」と被害者の男性が僕に言いました。
「いえ…… まぁ、 はい」
と僕は返しました。
検索をかけてみたら、
「電車内でショルダーバッグの女性から、突然、睨まれた」
って、被害報告をしている男性がヒットしました。
男性の皆さんは、電車内でショルダーバッグを脇に抱えている女性を見かけたら、距離を取っておいた方が良さそうです。