闘神の囁き
ヒャクリキが膝立ちの状態からゆっくりと立ち上がると、目の前のヨーカーの、奇妙な剣を握っていた両手がずるりと解けて下に落ちた。
その動きに釣られるようにして、ヨーカーの体全体もどさり、と音を立てて、前のめりに地面に倒れ伏す。
ヒャクリキの怪力によって頭部を半回転ほど捻じ折られたヨーカーの体は、うつ伏せに倒れているのに顔は上を向いているという、何とも奇怪な状態のまま動かなくなった。
上を向いたヨーカーの顔、その目は驚愕によって大きく見開かれたままであり、まるで立ち上がったヒャクリキを下から見上げているかのようだ。
エルフ特有の長い耳は、頭部を掴んだ際に潰れたのだろう。耳を形作っていた軟骨組織はぐしゃぐしゃにへし折られ、元の形は見る影も無く、歪な形に曲がってしまっていた。
ヨーカーの死体を見下ろすヒャクリキの視界には、自身の身体を貫いて刺さったままになった、あの奇妙な剣が映っている。
まるでヒャクリキの体から生えてきているかのような鋼の刀身の先に、異国風の意匠の装飾が目を引く柄が、花の蕾のように付いていた。
ヒャクリキはおもむろに右手で剣の柄を逆手に握ると、そのまま体から引き抜く。
「ぐむッ!」
鳩尾に激痛が走る。引き抜く際に肉を滑っていく剣の刃が、ヒャクリキの体内に鋭利な痛みの線を引く。
腕の長さだけでは抜け切らないので、途中からは左手も使って刀身を掴んで引き抜くと、刃が当たった指の腹にも痛みが疾った。
引き抜いた剣を右手に握り直したヒャクリキは刃を掴んだ際の傷が気になって、ふと左手の掌を見る。
指の腹には細い線状の傷が、人差し指と中指とを横切るようにできていた。目を凝らせば、そこから黒い霧のようなものが微かに立ち昇っている。
「…………」
ヒャクリキはそのまま鳩尾のあたりに視線を移す。剣を引き抜く際に疾った痛みはすうっと、まるで溶けるようにして消えて行き、あっという間に何も感じなくなっていた。
切り裂かれたブリガンダインとチェインメイルと戦闘服の隙間を覗くと、剣を引き抜いたあとに残ったはずの穴が塞がっている。穴が開いていたと思われる場所からは、やはり黒い霧のようなものが立ち昇っていた。
もう一度左手の指を見ると、指の腹にできた傷が消えていた。
それらだけでは無い。何より、ヨーカーの斬撃によって深々と上半身を切り裂かれたはずのあの大きな傷も、何事も無かったかのようにくっついて元通りになっている。傷痕らしきものさえも、どこにも見当たらない。
(これは…………この感じは、あの時の……)
さらにヒャクリキは今さらながらに気付く。左手の指が全て揃っている。
あの女の槍の刺突で斬り飛ばされたはずの人差し指と中指は、どういうわけか元通り、左手につながっていた。斬り飛ばされた箇所が破れた革の手袋から、2本の指がにょっきりと剥き出しになっている。
ヒャクリキは左手を何度か、握っては開いて動かしてみた。何の問題も無く普通に動く。痛みも感じない。
(やはり……やはりそうだ。……あの時と同じ……同じだ。)
左手だけではなかった。全身のあちこちに付けられたはずの傷の痛みも、その全てが跡形もなく消えている。
体から引き抜いた奇妙な剣を握る右手もそうだ。あのクロスボウの一撃で失われていたはずの右腕の感覚が戻っている。意識していなかったが、剣を引き抜いたのは肩から垂れ下がるようにして動かなかったはずの右腕だ。やはり痛みは無く、普段通りに動かせるようになっている。
なぜかあれほど無数の傷を負い、疲労困憊の状態だったヒャクリキの肉体は、このダンジョンに「潜る」前と同じ、普段通りの感覚に戻っていた。
痛みの情報が渋滞することによって、体全体が麻痺しているかのようなぼんやりとした感覚ではなく、傷そのものがそもそも存在せず、体中の神経が正常に稼働している状態。今のヒャクリキの体の感覚は、まさにそれであった。
まるで時間を逆行させたかのように傷が消えてしまった。
いちいち目で見て確認したりはしないが、おそらく全身に受けた無数の傷も、今ヒャクリキがその目で見た鳩尾や左手と同じように、そこから感じる痛みと一緒に塞がって消えてしまったのだろう。
装備の隙間から漏れ出すようにして微かに立ち昇る黒い霧から、それが推察できる。
ヒャクリキはハッとして、腹部に手を当てた。
あの燃えるような焼け付く熱を、いつの間にか感じなくなっている。
痛みも感じない。しかしヒャクリキは微かにムズムズとした痒みのような感覚を、あの「不可視の一撃」を受けた場所に感じ取った。
ヒャクリキは奇妙な剣を地面に放り出すと、手早くブリガンダインを脱ぎ始める。
鎧の留め金を引きちぎるようにして力ずくで体から引き剥がし、無造作に投げ捨てた。
切り裂かれたチェインメイルも邪魔に感じた。強く掴んで思い切り引っぱると、小さな金属の輪は次々とその輪の切れ目から形を変えて解け、首まわりの部分もちぎれて裂けた。
その下に着込んだ戦闘服も、前で合わせた襟の部分から両手で引き裂くようにして破る。
ボタンがいくつかちぎれ飛び、ヒャクリキの上半身の前面が露わになった。
見れば腹部には小さな穴が開いている。この傷があの激痛と異様な熱の原因らしい。穴のまわりは出血によって赤黒く塗られていた。
やはりと言うべきか、そこからは黒い霧が立ち昇っている。
指で触ろうとしてヒャクリキがその穴に手を近付けると、いきなり穴から小さな丸い塊が、吐き出されるようにして飛び出し、地面にポトリと落ちた。
ヒャクリキは釣られてその小さな塊を注視する。
ヒャクリキに苦痛を与えていた「何か」の正体は、小さな金属片だったようだ。見た目から判断するに、鉛のように思われる。
どうやらあの不可解な武器は、この鉛玉を目に見えないほどの速さで飛ばすものであるらしい。
気付けば金属片に目を奪われている間に小さな穴は塞がって消えていた。
赤黒く固まり始めた出血の跡が無ければ、どこに穴が開いていたのか分からないほど綺麗に消えて無くなっている。
(体の感覚もそうだ……やはりあの時と同じ……そう、同じだ)
ヒャクリキが改めて全身に意識を集中すると、どこにも痛みを感じなくなっていた。
それだけでは無い。
重くのしかかるようにして全身を覆っていた疲労感も、まるで洗い流されたかのように綺麗さっぱりと消え去っていた。
それどころか、体の内側から湧き出すかのようにして、漲る力がヒャクリキの全身を満たして行く。
それはまさに“奇跡”と言って良かった。
有り得ない事が、ヒャクリキの体に起きている。
しかしヒャクリキは今自分の体に起きている現象に対して正直なところ、ほとんど驚きを感じていなかった。
なぜなら今自分の身に起きている、この謎の現象…………。
この……“奇跡”とも呼ぶべき現象を体験したのは、これが初めてでは無かったからである。
そう、ヒャクリキは経験済みだった。
あの、暗く冷たい迷宮の石畳。その感触の記憶が、あの時の記憶が甦る。
あの大きなトカゲのような、凶悪な脅威生物と戦った時。会心の一撃を与えた感触の代償として浴びせられた「黒い謎の液体」によって、ヒャクリキは死の縁を彷徨う状態に陥った。
今でも後悔している。悔やんでも悔やみ切れない。
自分はあの時、忍び寄る「死の恐怖」に敗北し、一瞬ではあるものの、ザラスの加護と救済どころか、あまつさえその「存在そのもの」までをも疑ってしまった。
気難しい闘神ザラスが、無慈悲な巨人が、そんなヒャクリキの精神の弱さを、見逃すはずが無い。
きっとザラスはお怒りになっただろう。簡単に信仰を揺るがせてしまったヒャクリキの弱さを。その精神の矮小さを。
生まれてこの方、日々闘神の加護に守られておきながら、窮地に陥ればあっさりとその御恩を忘れてしまう、ヒャクリキのその傲慢さを。
だからこそ闘神は、その御力でヒャクリキの身体に奇跡を起こし、見事に復活させてみせたに違い無い。
その恐しくも偉大な御力の一端を、愚かなヒャクリキにも分かりやすく、ハッキリと示して見せたのだ!
暗闇に包まれたあの迷宮の最深部で、再び目覚めたヒャクリキが真っ先に感じたのは自身に与えられた奇跡への歓喜ではなく、闘神の怒りに触れてしまった事実から襲ってくる恐怖と、そして後悔の波だった。
それからのヒャクリキは現在に至るまで十年以上、目を逸らしても心のどこかにこびり付く、拭いきれない罪悪感を抱えながら生きて来たのだ。
正直なところ、自分はザラスに見捨てられてしまったかも知れない、とさえ思っていた。
あれからも以前と変わり無く、日々の祈りも捧げ物も、可能な限りきちんと勤めては来たが、不覚にもその存在を疑ってしまった自分を、間違い無くザラスは憎んでいると、そう思っていた。
まるで呪われているかのように不遇が続く日常は、ザラスが与えた「罰」なのだと、そう自分を納得させて耐え続けるしか無かった。
そうして単調な労働の日々に自身を埋没させながら、およそ「戦い」とは呼べない日常を送り続ける自分を不甲斐無く思いながら、後悔に苛まれ続ける長い、長い時間を、ヒャクリキは過ごして来たのだった。
“密猟組合”の存在を知り、その組織に接触して密猟に手を染める事になった時、ヒャクリキは再び「戦い」へと身を投じられる事へのささやかな歓喜と、ザラスがそんな自分をどう思うか、という不安とがない混ぜになった複雑な感情を覚えたものだ。
しかしそれと同時に、
(人生に残された時間を使って可能な限りの価値ある「戦い」をザラスに捧げ続ければ、もしかすると自分の罪は赦されるかも知れない。マハイ・ベージに逝く事を、許されるかも知れない……)
心の中にそんな希望が確かに芽生えたのを、ヒャクリキは覚えている。
ヒャクリキの頬を温かいものが伝って落ちる。
信じられない。
まさか俺は今…………泣いているのだろうか?
「ザラス…………。嗚呼!ザラス!ザラスよ‼︎ 貴方は!…………やはり貴方は!俺を!……この俺を‼︎……」
そう、闘神はヒャクリキを見捨ててなどいなかった。
それが証拠に、闘神はこうして一度ならず二度までも、ヒャクリキに奇跡を起こしてみせたのだ!
呪術師ではなく戦士の家系に生まれたヒャクリキには、ザラスが語りかける声など残念ながら聞こえないが、闘神が示す意志を確かに受け取ったと、ヒャクリキは今、全身で感じている。
今なら分かる。ザラスが我が身に起こしたこの“奇跡”は決して「罰」などでは無かった。
この“奇跡は”、ヒャクリキの戦士としての資質と資格を、より深く見定めようとする闘神から与えられた、慈愛に満ち満ちた「祝福」だったのだ!
「奇跡は与えた。さあ、その身を投げ打ち「戦い」でもって、貴様の信仰を証明して見せろ!」
聞こえないはずなのに、ザラスの囁きが聞こえて来る。
ヒャクリキの身体が、抑え切れない歓喜に突き動かされて、ぶるりと震えた。
それと同時にパァっと、天井から強い光が降り注ぐ。
その光は冒険者が追加で射った照明ボルトによるものだろう。
光の刺激で現実に戻ったヒャクリキがあたりを見回すと、視界の中で冒険者たちが呆然とした表情を浮かべて立ち尽くしていた。
無理も無い。
奴らはザラスが起こした奇跡を目の当たりにしたのだ。
理解を超える闘神の御力の偉大さに、恐れ慄いているのだろう。
気付けばヒャクリキのすぐ側に、見失ったウォーハンマーが落ちている。
死角に入っていて気付かなかった。いわゆる「物見櫓の足元は暗い」というヤツだ。
ヒャクリキはゆっくりと余裕の有る動作で、そのウォーハンマーを拾い上げる。
(そうだ、誰に認められる必要も無かったのだ。俺は「戦士」だ!疑う必要など、どこにも無い‼︎ 何よりこうして、ザラスが認めてくださっているのだから……)
確かめるようにして右手にウォーハンマーを握り直したヒャクリキは、立ち尽くす冒険者たちの方へ、これまたゆっくりと向き直り、口を開く。
「……さあ、始めようか。戦闘再開と行こうじゃねえか。さっきまでは本調子では無かったせいで不甲斐無い戦いぶりを晒してしまい、貴様らも手応えが無かったと思うが……なぁに、ここからは充分に、期待に応えられると思うぜ。」
ヒャクリキの身体が燃えている。漲る闘志に燃えている。
腹部の熱は痛みとともに消えてしまった。しかし今度は代わりにヒャクリキの全身を、内側から焦がして燃え上がる、ドス黒い火焔が焼いている。
「貴様らに見せてやるぜ!闘神の尖兵と恐れられた“マハイ・ベージの戦士”の、その恐怖に満ちた戦いぶりをな‼︎‼︎」
ヒャクリキはウォーハンマーの鎚頭を冒険者たちに向けると、吠えるような声でそう言った。




