満身創痍
ヨーカーと名乗った男が手にした、奇妙な剣の一振りがヒャクリキを襲う。
ヒャクリキはウォーハンマーで受け止めたりはせず、躱す事を選択する。体がどこまでイメージ通りに動くか分からないので、躱す動作は自然と大袈裟なものにならざるを得ない。
予想通り、イメージからは程遠い緩慢さでしか体は動いてくれなかった。
体が動き出すのが、致命的に遅い。
危機一髪、横薙ぎに振り抜かれたその一閃が左肩のポールドロンの板金を掠める音を聞きながら、ヒャクリキは派手に地面に倒れ込んだ。
意識的に膝の力を抜いて、重力に引かれるまま自身の体重を利用して体を落下させる。
そうやって敵の狙いである頭部の座標を、瞬間的に低い位置へと移動させる事で攻撃を回避した形だ。しかし、勘による予測を頼りに早めに動き出したつもりが、実際には紙一重での回避となった。
ヒャクリキは地面に倒れた体勢からすぐさま体を捻って起きあがろうとする。すると今度はその体目掛けて、鋭い槍のひと突きが飛んで来る。
(くそったれ‼︎)
体を捻った勢いそのままに、さらに地面をゴロリと回転してその槍のひと突きをギリギリで躱す。
さらにそのまま2回転ほどしてから上体を地面から跳ね上げると、地面に片膝をついた体勢で動きを止めて敵の方へと視線を向ける。
「んー?……何だ何だ?えらく弱ってるように見えるなぁ……どうしたんだよマンブ野郎、もう疲れちゃったのかぁ?まだまだ始まったばっかりだぜぇ?」
ヨーカーは訝しむように眉を歪めながらも口元には薄笑いを浮かべて、おどけた様子で聞いて来る。
ヒャクリキは追撃が来ないのを確認すると、片膝をついた体勢からゆっくりと立ち上がり、再度左手のウォーハンマーを敵に向けて構え直した。
一瞬の攻防ではあったが、どうやら敵はヒャクリキの不調を完全に見抜いたようだ。
一方のヒャクリキは敵の攻撃を受ける事で、その脅威を明確に認識する。
(速い‼︎ 何だあの斬撃は⁉︎ まるで“力み”が感じられない。かなりの手練れだ‼︎)
ヨーカーの動きは見えていたが、おそらくは本気で攻撃していない。一閃からは殺気が感じられなかった。様子見の攻撃だったのだと思われる。
しかしそれでもその一閃の速さと鋭さは、ヒャクリキの予想を遥かに超えていた。
その後の槍を構える男の追撃も冷や汗ものだった。
突き出した先に有る地面との衝突で槍の穂先の刃を鈍らせるのを嫌ったのか、どうやらこちらも本気の刺突では無かったようだ。
とは言え、追撃に気付くのが一瞬遅ければ、ヒャクリキは確実にあの槍で串刺しにされていただろう。
(止まってはダメだ‼︎ 止まってしまえばこいつらはさっきのように、絶え間なく連携して攻撃を仕掛けて来るはずだ。動きを止めたら敵に必殺の間合いを与える事になる!動け!とにかく動くんだ‼︎)
ヒャクリキは敵を睨みつけたまま、油断無い足運びで近くに有る大岩へとにじり寄り、そのゴツゴツとした岩肌に背中を預ける。
硬質な岩壁を背負うことによって背後からの攻撃を防ぎ、不用意に攻撃すればそれを回避される事によって武器を傷める結果になると、相手に分かりやすく示す。
さらにはそのまま足を止めずにゆっくりと移動を続ける。敵に体の正面を向けたまま岩肌に沿って横歩きに移動し、ウォーハンマーを構える素振りをチラチラと見せつつ、敵の攻撃を牽制していく。
そうして膠着状態に持ち込みはしたものの、ヒャクリキは敵から受けるプレッシャーによって、短い時間であっても自分の精神力がガリガリと削られて行くのを感じていた。
徐々に体に力は戻りつつあるが、それと同時に全身の傷の痛み、特に腹部の痛みがぶり返して来ているのも感じる。
体が動かない苛立ちと入れ替わりに、今度は体のあちこちで発火するような、無視できない連続した痛みの襲来が、ヒャクリキの神経を炙り始めていた。
(これは……絶望的だな……対処できる気がしない。……崖下に逃げれば時間を稼げるか?……いやダメだ。そもそもどうやって?ここから飛び降りるのか?無傷でそれはできない。それこそ自殺行為だ)
そんな事を考えていると、青白い光の塊がヒャクリキ目掛けて飛んできた。それも一つや二つではない。収斂された魔素の礫が、雨霰とばかりにヒャクリキを穴だらけにしようと襲って来る。
ヒャクリキは横っ飛びに飛んでそれを回避する。
反射的な行動なので受け身を取る事など計算には入っておらず、ヒャクリキはまたしても横滑りするかのように、地面に横倒しに倒れ込んだ。
魔術師と思われる四人組が、離れた場所から魔術を撃って来たのだった。
慌てて起き上がったヒャクリキが何が起きたのかを理解したタイミングで、またしてもヨーカーと槍の男が攻撃を仕掛けて来る。
ヒャクリキはその攻撃を瞬間的に、爆発的に高めた集中力で回避する。
ヨーカーの袈裟斬りに振り下ろした斬撃を、ギリギリの間合いで見切って後ろに退がって躱し、続けて腹部目掛けて突き出される槍の穂先を、腰を捻って体の軸をずらす事により、これまたギリギリで躱す。
敵の攻撃を回避した瞬間、ヒャクリキは奥歯を強く噛み締める。そうすれば一瞬だけでも、全身の痛みを体から吹き飛ばせるような気がするからだ。
そして左手に握ったウォーハンマーを思い切り振り抜く。
命中させると言うよりは威嚇して追い払う狙いの一振りを、標的のヨーカーは素直に後ろに退がって回避した。
その瞬間、乾いた破裂音が空間に響く。
パパパァン!と連続して鳴る音がヒャクリキの耳に届いた瞬間、ブリガンダインの脇腹を“何か”が掠めて飛んで行き、それとほぼ同時に右足の太腿のあたりでチェインメイルの金属製の輪が引きちぎられ、悲鳴のような金切り音が小さく鳴った。
魔術による攻撃に続けて、今度は例の不可視の攻撃。
ヨーカーと槍の男による近接攻撃が途切れると、今度はそこへ遠距離から、それらの“飛び道具”が飛んで来る。
(コイツら容赦が無いな!当然と言えば当然だが……)
そう思った瞬間、ヒャクリキは左の鎖骨のあたりに熱を持つような痛みを感じた。
何かと思って見てみれば、首筋から左肩を覆っているブリガンダインの肩の部分の革、体の前側の一部が小さく裂けている。
(板金が入っていない箇所とは言え……掠めただけで革を切れるのか!何という切れ味だ!何なんだ⁉︎ あの剣は‼︎)
先ほどのヨーカーの斬撃を、ヒャクリキは見切ってギリギリで躱したつもりでいたのだが、どうやらあの奇妙な剣の切っ先は鎖骨のあたりを掠めていたらしい。
驚異的な現象を目の当たりにして、驚愕からかヒャクリキの顔に脂汗が噴き出す。
痛みを感じるという事は、ブリガンダインの革だけでなくその下のチェインメイルの金属製の輪も、さらにはその下に着込んでいる戦闘服の布地をも切り裂いて、ヒャクリキの体まであの斬撃が届いたという事だ。
これほどの切れ味を持つ剣など、ヒャクリキは見た事が無い。
これではあの剣の斬撃の前では、ヒャクリキがしている重装備は意味を成さないものになってしまう。
(さらにはあの斬撃の速さだ。刃筋を見切って鎧で受け流すような事はできない。つまりは躱すしか無い、間合いに入らないようにするしか無いという事か……)
その瞬間、思考に囚われて思わず足を止めていたヒャクリキの左太腿に、クロスボウのボルトが突き立った。
「がっ‼︎」
慌ててヒャクリキは移動を再開する。一歩進めるごとに腹部と左足に疾る痛みに顔を歪めながらも、死角になる背中を敵に向けないように注意しつつ、近くに有る大岩への最短距離を進んだ。
移動している最中にもクロスボウのボルトが飛んで来る。体のすぐ近くを飛んで行くボルトの風切り音を聞きながら、ヒャクリキは一旦ウォーハンマーを右の脇に挟み、空いた左手で太腿のボルトを引き抜いた。
不幸中の幸いと言うべきか、太腿に刺さったボルトは小型のクロスボウに対応した、小さめのボルトだ。
もちろん左足が地面に着くたびに、そして足を蹴り出そうと力を込めるたびに痛みが疾りはするのだが、傷は浅く、動かせないほどでは無い。
もし刺さったのが右肩に命中したあの強装ボルトだったら、ヒャクリキは歩く事すらできなくなっていただろう。
視界の中でヨーカーが攻撃しようと近付いて来るのが見える。
ヒャクリキは右脇に挟んでいたウォーハンマーを再び左手に握ると、ヨーカーに向けて構え直した。
その瞬間、いきなり爆発的な瞬発力でヨーカーが踏み込んで来る。
あの一閃もそうだが、踏み込みの速さも異常だった。続けて打ち込まれる一閃を後ろに退がって躱すつもりだったヒャクリキだが、踏み込みのあまりの速さに度肝を抜かれてしまった。
ヒャクリキは反射的に、想定とは逆方向に、つまりはヨーカーに向かって前進しながら、その一閃をウォーハンマーで受け止める。
小さな火花が散り、金属がぶつかり合う音が、あたりに響く。
「ハハッ‼︎ まさか前に出て来るとはな!やるじゃねぇか、マンブ野郎‼︎」
ヨーカーとしては、奇妙な剣の「物打ち」と呼ばれる、切っ先から刃渡りの約四分の一ほどの長さに当たる、剣の先の部分でヒャクリキの体を捉えたかったのだろうが、予想に反してヒャクリキも踏み込んだ事により、さらに根元の、ほとんど鍔のあたりで一閃を防がれてしまった形だ。
そのまま二人は一瞬だけ鍔迫り合いの形で固まったが、ヒャクリキの方が体格と体重の優位性で押し込んでいると見るや、ヨーカーはあっさりと身を引いた。
素早く鍔迫り合いの状態を解いて後ろに跳びすさり、これまた一瞬でヒャクリキの攻撃範囲の外に逃げてしまった。
「……俺様の一閃を片手で受け止めるなんてなぁ。分かっちゃいたけど、なんて馬鹿力なんだよ。あんたの両手が利いてりゃ、むしろ俺様の方が危なかったぜ」
そう言うヨーカーの表情はとても嬉しそうだ。
ヨーカーの余裕たっぷりの言葉を聞いている今まさにこ瞬間にも、ヒャクリキはその全身を、啄まれているかのような煩わしい痛みに炙られている。
そんなヒャクリキとは対照的に、当のヨーカーからは、心から戦闘を楽しんでいる雰囲気が伝わって来ていた。
槍を構えた男はヒャクリキとヨーカーが鍔迫り合いの状態で固まった瞬間、ヒャクリキを突こうとするような素振りを一瞬見せたのだが、すぐにヨーカーがヒャクリキから離れたのを見て、攻撃を思い留まったようだった。
パァン!
またあの乾いた破裂音が響いた。ヒャクリキの耳のすぐ横を、“何か”が空気を切り裂く音を立てながら通過して飛んで行く。
飛んで行った“何か”に千切られたのだろうか、ヒャクリキの黒髪がハラハラと空中を舞って落ちて行った。
どうやら離れた距離からだと、あのよく分からない武器での攻撃は思ったほど命中しないようだ。
「あっ!バッカ野郎‼︎ 今は俺様が攻撃してんだろうが‼︎ 妨害行為だぞ!このガイジンども‼︎ それに俺らに当たったらどうすんだよ‼︎」
ヨーカーは異様な風体の者たちに向かって抗議の声を飛ばす。
冒険者たちが一斉に襲い掛かって来ないのは、やはりチームごとバラバラに攻撃しているからのようだ。おそらくだが、他のチームが攻撃している間は手を出してはいけない決まりでも有るのだろう。
しかし、それに気付いたところでヒャクリキが置かれた状況が好転するわけでは無い。
(ダメだ!このままではコイツらになぶり殺しにされるだけだ。今のままでは、まともに反撃する事すらできない。攻撃の手数が違いすぎる。このままいつまでも、攻撃を躱してばかりはいられない!)
敵は目の前のヨーカーと、もう一人の槍を構えた男だけではない。
この二人の攻撃が途切れた途端に、遠距離から飛び道具が飛んで来る。
さらには今のところ目立った動きをして来ないが、目の前の二人と遠くに居る飛び道具で攻撃してくる連中との間には、黒い装備に身を固めた五人組が攻撃のチャンスを窺うようにしながら散らばって動いている。
さらには視界の端に、大盾を構えた冒険者が三人固まっているのも見えた。
(とにかく敵の攻撃、その手数を減らさない事にはどうにもならん……)
ふと気付けば視界の中で、一人の女の冒険者が大型のクロスボウをヒャクリキに向けて構えている。
おそらく先ほど右肩に突き刺さった、あの強装ボルトを撃って来た女だ。
それに気付いた瞬間、ヒャクリキの全身が総毛立つかのような感覚にとらわれ、一瞬で警戒状態にまで緊張が高まった。
ヒャクリキは女の姿を凝視する。
クロスボウを発射するにはトリガーを握れば良いだけだが、その際に射手の体に表れる僅かな動きを見逃すまいとして、極限まで視覚に精神を集中する。
女から殺気のような気配を微かに感じ取ったヒャクリキは、その瞬間横に跳んでクロスボウの射線上から体を移動させた。
野太い風切り音とともに、ヒャクリキの横を強装ボルトが疾風の如く通り過ぎて行った。
「おいおいミント、またハズレじゃねぇか!らしくねぇな!でもナイスだぜ‼︎」
味方が射撃を失敗したというのに、なぜかヨーカーは嬉しそうに茶化すような口ぶりで言う。
その時だった。
空間の天井の岩盤に刺さっていた照明ボルトから降り注ぐ光がふっと弱まり、にわかに空間が闇に包まれた。
「なっ‼︎ 良いところなのに、こんなタイミングで……アンネ!照明ボルトよ!早く!逃げられてしまうわ‼︎」
コーネリアとかいう名の女の声が響く。声の響きからは、女がかなり焦っている事が窺える。
あたりが闇に包まれても、夜目が利くヒャクリキには冒険者たちの様子がちゃんと見えていた。
どうやら急に視界が暗くなった事で、他の冒険者たちの間にも焦りと動揺が拡がっているようだ。
(これはチャンスだ‼︎ 俺を見かねたザラスが、救いの手を差し伸べて下さったに違いない‼︎)
そう、これは降って湧いたチャンスだ。
この隙を突いて逃げるため?いいや、それは違う。
ヒャクリキは強装ボルトを撃ってきたあの女目掛けて駆け出した。
左足の太腿が痛む。
腹部の傷にも焼け付くように痛みが疾る。まるで燃えているかのようだ。
しかしヒャクリキは奥歯を強く噛み締めたまま、必死で足を動かす。
まずはあの女からだ。面倒な遠距離攻撃、その中でも急所に当たれば致命傷になり得る攻撃手段を持つ、あの女から擦り潰す。
再び照明ボルトが撃ち上げられるまでに、飛び道具で攻撃して来る冒険者の数を一人でも減らしておく。そうすればまだ勝ちの目が残っているはずだ。
そう考えながら、ヒャクリキは走る足に力を込める。
ヒャクリキは女に向かって一直線に最短距離を駆けて行く。
完全に力が戻らないヒャクリキの足でも、あと五つ数えれば到達できる距離だ。
女は必死でクロスボウのハンドルを回して弦を引こうとしているが、再度クロスボウを発射するよりも、間違い無くヒャクリキが到達する方が早い。
(殺れる!)
そうヒャクリキが確信したその瞬間だった。
いきなり三人の冒険者が視界の端から飛び出したかと思うと、女へ向かって駆けるヒャクリキの進路上に、横に並んで壁のように立ち塞がった。
三人ともが、大盾を並べるように構えて、その隙間から槍を突き出している。
「退け‼︎ 邪魔だ‼︎‼︎」
ヒャクリキは怒声と共に三人並んだ真ん中の冒険者に向かって跳躍する。
跳躍のために地面を蹴った瞬間、腹部にまるで抉られるような痛みが拡がった。
「ぐらあぁぁっ‼︎」
痛みに呻くような声を上げながら、跳躍の勢いそのままに、ヒャクリキは冒険者が構える大盾を踏み台にして、冒険者三人からなる壁を飛び越える。
飛び越しざまに振るったウォーハンマーが、三人のうちの一人が頭に被っているグレートヘルムにめり込み、ぐしゃりと中身が砕けるような感触が手に伝わって来た。
冒険者三人は闇の中で、おそらくヒャクリキの姿がハッキリとは見えていなかったのだろう。ヒャクリキが立てる足音を頼りに突き出したのであろう槍は、その全てが虚しく空気を貫いただけだった。
バランスを崩す事も無く地面に着地したヒャクリキは、脳天を叩き潰された冒険者がどしゃりと地面に倒れる音を背中に聞きながら、そちらを振り向く事もしないまま、再び女目掛けて走り出す。
ヒャクリキの視界に収まる標的は、いつの間にか二人に増えていた。
闇の中を目を凝らしてよく見れば、あのコーネリアとかいう女がカバーするかのようにクロスボウの女の前に立ち、魔術を発動しようと詠唱を始めている。
手に持った杖に埋め込まれた魔導触媒が、青白い光を放って輝いている。だが、
(馬鹿め‼︎ 間に合うものか‼︎ 二人まとめて擦り潰してやる‼︎)
あと一息で標的をヒャクリキの必殺の間合いに捉える事ができる。
ヒャクリキはウォーハンマーの感触を確かめるかのように、それを握る左手に力を込めた。
するとその瞬間、またしても目の前に冒険者が立ちはだかった。
しかし今度は一人だけだ。やや腰を落として、カイトシールドを体の前に構えている。やはりヒャクリキの足音に反応して、あの女二人を守ろうと進路上に割り込んで来たらしい。
(またか‼︎ 鬱陶しい!邪魔をするな‼︎)
こうなったらコイツもまとめて擦り潰す!二人が三人になろうと同じ事だ‼︎
「うぅらあぁぁァァァァ‼︎‼︎」
ヒャクリキは瞬時に標的を目の前の冒険者に切り替える。
そしてカイトシールドごと圧し潰そうとするかのような気魄を乗せて、力一杯にウォーハンマーを振り下ろした。
「‼︎‼︎⁉︎」
何が起きたのか?
ヒャクリキは混乱する。
あの冒険者の脳天を叩き潰したはずが、なぜか彼は宙を舞っていた。
必殺の間合いに捉えたはずのあの冒険者がヒャクリキの視界の中で、まるで自分から遠ざかるかのように離れて行く。
「ぐわあっっ‼︎」
背中から地面に叩きつけられて、ヒャクリキは痛みと衝撃に悶絶する。
受け身を取る事ができなかった。
肺が潰されて呼吸ができない。
(何だ⁉︎ 何が起きた⁉︎ 一体何が、どうなっているんだ‼︎⁉︎……がああぁぁっ‼︎‼︎)
状況が把握できずに混乱するヒャクリキの腹部に激痛が疾る。
どうやら攻撃に集中する事で忘れていた痛みが、集中が途切れた途端にぶり返してた来たようだ。
「ぐうぅ……どうなっていやがる…………」
地面に寝そべったままヒャクリキは呟く。その呟きで肺に空気を取り込む事によって、なんとかヒャクリキは呼吸を取り戻した。
「がはっ‼︎ ぜぇっ!ぜぇっ!……く、くそったれ!」
そのまま起き上がろうとしたが、身体は何か大きなショックを与えられたかのように、言う事を聞いてくれない。全身が痺れるような痛みに覆われており、その中で腹部が燃えるように熱を持っている。
ヒャクリキの攻撃は命中するかに思えた。しかし命中すると確信した瞬間、あの冒険者が構えたカイトシールドが、急に視界一杯に拡がって大きくなったように見えたかと思うと、まるで馬に撥ねられたかのような衝撃がヒャクリキを襲い、気付けば宙を舞っていた。
(……なるほど、体当たりか何かで弾き飛ばされたのか。……いや待て、俺の方が体は大きいし目方も重いんだぞ。そんな事ができるのか?……もしかするとそういう類いの魔術なのかも知れない……)
そんな事を考えるヒャクリキだったが、同時に大きな絶望感が彼を襲う。
千載一遇のチャンスだった。
暗闇を利用して敵の数を減らせる絶好の好機だったのだ。
その好機をまんまと逃してしまった。敵の戦力を削ぐはずが、結果的に痛手を負って地面に転がっているのは自分の方だった。
確かに一人は仕留めたが、そんな戦果では気休めにもならない。
(賭けは大ハズレ……か。だが、泣き言を言っている場合では無い……)
うつ伏せに突っ伏しているヒャクリキの視界には、地面の土が映っている。
ヒャクリキはうつ伏せの状態から、左手をついて腹に力を入れ、上体を地面から持ち上げた。
腹部は熱に覆われて、もはや痛いのかどうかすら分からない。
口でも切ったのだろうか?何かがポタポタと地面に垂れて落ちて行く。
立ち上がらなければ。
賭けに出た結果が期待外れに終わったとしても、そんな事は関係無い。
立ち上がってまた、戦うのだ。
そう、そうだ!戦うのだ‼︎ 俺は戦士なのだから‼︎
俺はマハイ・ベージの、偉大な先祖たちの血を引く戦士なのだから‼︎‼︎
急に周囲が、パァッと明るくなった。
再び空間の天井に、照明ボルトが撃ち込まれたらしい。
地面に垂れた血の鮮やかな赤い色が、ヒャクリキの視界に飛び込んで来る。
今のヒャクリキは、まさに満身創痍と呼べる有り様だった。
角鬼どもに負わされた、全身に散らばる無数の小さな傷。
不可視の一撃によって腹部に埋められた“何か”がもたらす、耐え難い激痛と燃え上がるような熱。
強装ボルトが突き刺さって右肩に空いた穴。
左太腿にもボルトによる矢傷。
左の鎖骨のあたりには躱し損ねたヨーカーの一閃による裂傷。
そしてあのカイトシールドの冒険者に弾き飛ばされた衝撃で、どうやら肋骨が何本か折れているようだ。
ヒャクリキは全身の痛みに体を震わせながらも、ゆっくりと地面から頭を上げ、なんとか膝を地面に着けて四つん這いの体勢になった。
早く立ち上がらないと。敵はこちらの体勢が整うまで待ってはくれない。
まずは周囲の状況を確認しなくては。
ヒャクリキは片足を前に持ち上げて片膝をついた体勢になると、俯いていた顔をゆっくりと上げる。
そこでようやく気付いたが、目の前には一人の男が立っていた。
冷たい視線、能面のような無表情を貼り付けた顔で、ヒャクリキを見下ろしている。
いや、その男だけではなかった。
改めてあたりを見回すと、ヒャクリキのまわりに一定の距離を置いて、黒い装備に身を包んだ者たちが全部で五人、立っている。
「いらっしゃい、“ドラセルオードの怪人”。ようこそ、俺たちの包囲の輪の中へ」
目の前の男はヒャクリキを見下ろしたまま、その顔に不敵な笑みを浮かべると、演技じみた口調でそう言った。