“怪人”戦法
鈍い風切り音を置き去りにするようにして、ウォーハンマーの鎚頭が疾る。
その軌道上に立ち塞がった角鬼が被る兜、その板金に衝突した鎚頭は、小さく火花を散らしながら、大きな衝撃音をあたりに響かせた。
重い。
重い!
体が重い‼︎
面当ての覗き穴を通したヒャクリキの狭い視界の端で、金属製の装備に身を包んだ角鬼の小さな体が、ふらりと宙を泳いだ後、どさりと地面に倒れ込む。
上手く致命傷を与えられただろうか?それともただ気絶しただけだろうか?
伝わってくる手応えからは判断できない。
クソッ‼︎ 重い!
体が重い‼︎
思うように動かない‼︎
ウォーハンマーを三回振るうちの少なくとも一回は、ヒャクリキが思った通りの軌道を描かない。
足腰で支えきれない分の体重を上手く吸収できず、体幹は大きくぐらつく。
着け慣れたはずの装備の重量全てが、無視できない重さでヒャクリキにのしかかって来る。
思うように動いてくれない肉体への焦りは、ジリジリと精神を炙るような苛立ちへと、徐々にその姿を変えていく。
ヒャクリキの腹の底、心の奥深くに沈んだ黒い澱のような塊は、ふつふつとその表面を煮立たせ始めている。
「おおおぉぉるらああぁぁぁぁぁぁぁ‼︎‼︎」
ヒャクリキは野獣のように咆哮する。
まるでウォーハンマーの一振りに、その気魄を乗せようとするかのように。
まるで自身を内側から焼くような、焦りと苛立ちを掻き消そうとするかのように。
狭い視界の中に角鬼が現れては、ウォーハンマーに殴られ、吹き飛ばされて消えて行く。
ヒャクリキの中に戦術と呼べるようなものは既に無い。
視界に標的が映るたび、ただただそれ目がけてウォーハンマーを振るうだけだ。
今までに積み上げてきた戦闘の経験が勝手に、ほとんど自動でヒャクリキの体を動かしていた。
そんな瞬間、瞬間が頼りなく、辛うじて繋がっているかのような感覚。
圧迫されるような息苦しさの中で、自身を包んでいる曖昧な世界と物質と時間とが、ぬるり、ぬるりと蠢いているかのような感覚の中を、ウォーハンマーの鈍く重い打撃音が鳴り響き、角鬼たちから噴き出す血飛沫が舞っている。
そして入れ替わり立ち替わり襲って来る角鬼たちの攻撃を前にして、さすがにヒャクリキの方も無傷では済まなかった。
彼は角鬼たちが手にした石斧や棍棒で殴られ、小さく粗末な槍の穂先で突かれ、体のあちこちに傷を負っている。
その傷の痛みもまた、じわりじわり、ざわりざわりと、ヒャクリキの精神を波立たせる。
身に着けている装備一式にも、いたる所に角鬼たちの攻撃によって傷が付けられており、修繕してからまださほど日が経っていないというのに、既にボロボロと呼んで良い有り様になっていた。
(クソッ!体が重い!……敵は一体、あとどれだけ残っている?)
ウォーハンマーを握っている右手の手首に、ビリッと疾る痛みを感じながら、ヒャクリキはそんな事を考える。
おそらくヒャクリキのゴツく、分厚い掌の皮膚には無数の血マメができている事だろう。外して確認したりなどは勿論しないが、手袋の中が血に塗れているであろう事は、掌に感じるぬめりから伝わって来る。
いきなり目の前が暗くなった。
何が起きた?そう思った一瞬の後、“戦士”の大きな体躯が目の前に立ちはだかったのだ、という事にヒャクリキが気付くのとほとんど同時に、“戦士”が手にする大きな戦斧の刃が飛んで来る。
ヒャクリキは咄嗟にウォーハンマーの鎚頭を空いている左手で掴むと、両手で持った状態でその一撃を受け流した。
“戦士”の攻撃が見えていたわけでは無かった。ほとんど勘だけで、その強烈な一撃を無傷で受け流す事に成功した。勘は見事に的中し、ウォーハンマーを構えた場所に攻撃が飛んできた格好だ。
受け流しに成功したとは言え、凄まじい衝撃がウォーハンマーごとヒャクリキを襲う。
“戦士”の筋力は驚異的だった。ヒャクリキの大きな体は、戦斧の刃に弾かれたウォーハンマーにつられるようにして、吹き飛ばされるように大きく揺らぐ。
ウォーハンマーを握る両の手に、平常時と比べてどれだけの握力が利いているのか、その感覚すらも今のヒャクリキには分からなくなっていたが、幸いにも敵の一撃に得物を弾き落とされるなどという事は無かった。
(強い!この一撃だけでも、深部で遭遇した“戦士”とはまるでモノが違う‼︎)
崩れた体勢を立て直そうと、ヒャクリキは数歩たたらを踏んで何とか倒れずに踏み留まった。
(思い出したぜ!そうだ、あの頃、“暗黒大陸”に居た頃に戦っていた“戦士”は、どいつもこいつもこのぐらいは強かった!)
追撃とばかりに振り下ろされる戦斧の一撃を、ヒャクリキは間一髪、咄嗟に横転して躱す。そしてそのまま横転の勢いを上手く利用して、器用な動作で立ち上がる。
状況を確認するため慌てて“戦士”の方を見ると、敵は振り下ろした際に体重のほとんどを乗せた事と、尋常ではない刃の重さとで地面にめり込んでしまった戦斧を、なかなか持ち上げられずにいるようだった。
形勢逆転だ。
ヒャクリキの闘争本能が、まるで“燃える水”で着火されたかのように、一瞬で燃え上がる。
衝撃のせいで痺れる手に意識的に力を込めて、ウォーハンマーの持ち手を握り直すと、ヒャクリキは“戦士”の間合いの中へ、一息に踏み込んだ。
(殺った‼︎‼︎)
ヒャクリキは“戦士”の頭部へと目掛けてウォーハンマーを力一杯振り下ろす。
間違い無く、ヒャクリキの必殺の間合いだった。
“戦士”が兜、あるいは仮面の代わりに被っている大型生物の頭蓋骨に、ウォーハンマーの鎚頭が深々とめり込む、そんな一瞬先の幻視をヒャクリキは見る。
しかし、命中の衝撃が伝わってくると思われたウォーハンマーを振り下ろすその手を、それとは違う種類の衝撃が襲った。
ヒャクリキが全身の力を振り絞って繰り出した渾身の一撃は、いきなり大きな塊のような「何か」に、その動きを止められたのだった。
見ればヒャクリキがウォーハンマーを握る右腕の前腕、手首から肘までの半分ほどの長さを、“戦士”の大きな手が掴んでいる。
攻撃に全神経を集中させていたヒャクリキは、“戦士”の片手が空いている事を失念していた。完全に意識の外だった。
(ちぃっ‼︎ しまった‼︎)
“戦士”の手に包まれた前腕に、押し潰されるような痛みが疾る。敵はヒャクリキの右腕を、その脅威的な握力で握り潰そうとして来た。
しかしその痛みに反応するかのように、“戦士”が握力を最大まで上げ切る寸前で、ヒャクリキは前腕に力を込める。
力を込める事で硬く収縮し、太さを増した前腕の筋肉は、圧壊させようと襲ってくる暴力的な力に対して、なんとかギリギリのところで抵抗を間に合わせた。
しかしこれは、痛恨のミスだ。
小さい体躯の角鬼相手ならいざ知らず、今ヒャクリキを拘束しているのは巨漢のヒャクリキさえもゆうに超える巨体、それに見合った体重を誇る“戦士”だ。
その体重と筋力に縫い留められて、ヒャクリキの移動は完全に封じられてしまった。
勝ちを焦るあまりに雑な攻撃を仕掛けてしまった自分の浅はかさに、ヒャクリキは思わず心の中で舌打ちする。
ヒャクリキの息苦しく狭い視界の中、“戦士”はヒャクリキを掴んでいるのとは反対側の手でゆっくりと戦斧を持ち上げると、さらに高々と振りかぶる。
そして動く事ができない標的へと、ゆっくりと慌てないように狙いをつけるかのような仕草を見せた“戦士”は、次の瞬間、渾身の一振りをヒャクリキ目掛けて打ち下ろして来た。
ヒャクリキは掴まれている腕の痛みを無視するかのように無理やり一歩前に踏み出すと、空いている左手を突き出す。
反射的な、やはりほとんど勘に任せただけの行動だったが、突き出した左手は見事に戦斧を握る“戦士”の腕、その手首を、またしてもピンポイントで掴む事に成功した。
戦斧の大きな刃がヒャクリキの脳天をとらえる寸前、間一髪のタイミングだった。
ヒャクリキはお返しとばかりに“戦士”の手首を掴んでいる左手に思い切り力を込める。指先が“戦士”の太い手首に沈み込み、ギリギリと締め付ける。
そのままヒャクリキと“戦士”は、お互いが相手の武器を持った手を掴み合った状態で、ピタリと固まった。
がっぷり四つの、押し相撲の体勢だ。
(しかしこれは……どうにも、分が……悪いぜ……)
バシネットの面当てに覆われたヒャクリキの顔には、粒の立った脂汗がびっしりと浮かんでいる。
ヒャクリキは今まさに、全身の筋力を総動員して“戦士”の怪力と体重を受け止めている。
奥歯を食いしばり、身体中の関節をガッチリと固定して、頭上からのしかかる脅威的な重さに必死の形相で抵抗していた。
このまま押し潰されて上に乗られてしまえば、ヒャクリキを待っているのは間違い無く、確実な「死」だけだ。
一方の“戦士”は体格の利を活かすように、上から覆いかぶさるようにして、容赦無くヒャクリキを押し潰そうとして来る。
ヒャクリキは襲ってくる力に抗いながら、“戦士”が被っている仮面を睨みつけた。
ふと“戦士”がその仮面の奥で、余裕の笑みを浮かべたような、そんな気がした。
腹の底で、黒い澱のような塊が、ふつふつと沸き立っている。
灰色の感情が、必死の抵抗を続けるヒャクリキを、その側で静かに見つめている。
なぜかヒャクリキの脳裏に、彼のこれまでの人生、その苦難の日々が、走馬灯のように駆け巡った。
(思えば俺の人生は、こんな事ばかりだな……)
理不尽と暴虐が襲い掛かって来るそのたびに、自身の持てる力全てを振り絞って必死の抵抗を繰り返す。
やはりこれがヒャクリキに課せられた、戦士としての宿命なのだろうか?
“戦士”に掴まれたヒャクリキの前腕の芯に当たる部分、太い筋肉に覆われた、これまた太く頑丈な骨が、異常な握力に圧迫されてギシギシと軋むような音を立てる。
まるで想定を遥かに超える力で無理やり動かされ、その負荷に耐えきれずに異音を上げる器械の部品のように、ヒャクリキの全身の関節が悲鳴を上げ始める。
最後の一滴を搾り出そうとする雑巾の如く、限界を超える収縮を続けている全身の筋繊維に、小さくブチブチと、焼け付くような痛みが疾る。
ヒャクリキの体は必死の抵抗も虚しくジワジワと、“戦士”の体重と筋力に押し込まれていく。
(…………してやる……)
灰色の感情が、静かに、それでいて無造作に焚べられていく。
腹の底に沈められた黒い塊は、ついにはドス黒い炎を噴き始めた。
(潰してやる!……ゴミのように、土くれのように、虫ケラのように…………潰してやる!擦り潰してやるぞ‼︎ 吊り下げられたメケ鶏のように!縊り殺された走破鳥のように!貴様をただの物言わぬ、冷たい肉の塊に変えてやる‼︎)
「うぅおおオオオオオオオォォォォォォアアアァァァ‼︎‼︎」
「グオぅるルるるrrゥウアアアアああぁぁァァァ‼︎‼︎」
ヒャクリキが腹の奥から爆発させるように上げた咆哮。それに応えるかのようにして、“戦士”もまた咆哮を返す。
お互いの顔が近くに在る状態で、お互いが相手の咆哮に応酬する。
しかし次の瞬間、ヒャクリキはその視線の焦点を“戦士”の仮面に集中させると、いきなり全身から力を抜き、代わりにその背中を思い切り反らせて頭を後ろに振りかぶった。
それまで自身の体重と、相手を押し潰そうと込めていた力を押し返して来ていた支えを急に失って、“戦士”の上体は大きく前側につんのめる。
その刹那。
ヒャクリキのバシネットが額の部分から、“戦士”の仮面に衝突した。
追い込まれたヒャクリキが起死回生の切り札とばかりに放った頭突きが、カウンターとなって“戦士”の顔面に深々とめり込んだ。
「グシャッ」と何かが潰れるような、鈍く、重い破壊の音があたりに響く。
それは全身の筋力とバネを総動員させ、自身の燃え上がる憤怒と闘志をバシネットの額に集中させて、勢い良く敵に叩きつける一撃。
言うなればヒャクリキは自分自身を一個の武器に変えて、“戦士”の顔面を殴りつけたのだった。
構造的には人間と変わらない角鬼の肉体は、やはりその弱点も人間と同じようなものであるらしい。
ヒャクリキの頭突きは、おそらく人体で言えば「人中」と呼ばれる部分に、見事に命中したのだろう。
粉々に割れた仮面から、ヒャクリキのバシネットが赤い糸を引きながら離れていく。
“戦士”は糸が切れた操り人形のようにその全身から力を喪失すると、そのままさらに前につんのめるようにして、重力に導かれるまま、派手な音を立てて地面にうつ伏せに倒れ伏した。
「ぜぇっ!ぜぇっ!ぜぇっ!…………はぁーっ!はぁーっ!はぁっ!」
ヒャクリキはよろける足でなんとか体を支え、大きく肩で呼吸しながら、倒れた“戦士”を見下ろす。
“戦士”の大きな体はだらしなく地面に伸びて横たわっており、見ればその大きな手や脚先が、ピクピク、カタカタと痙攣するかのように震えていた。
衝突の衝撃で脳が揺れたせいだろう。ヒャクリキの意識はぼんやりしている。
衝撃を吸収しきれなかったらしく、筋肉に覆われた太い首は鈍い痛みに覆われていた。
ヒャクリキの額は燃えるような熱を帯びており、それ以外の感覚が、まるでどこかに吹き飛んでしまっているかのようだ。
しかしヒャクリキは、自分が乾坤一擲で放った頭突きの一撃が“戦士”の命に間違い無く届いた事を、そしてその命を粉々に打ち砕いた事を、ぼんやりとした意識の中で確信していた。
「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ!」
先ほどまで出せる限りの力を振り絞っていた全身の筋肉に、必死で酸素を送り届けようとしているのだろう。肺は忙しく大きな収縮を繰り返し、心臓もガンガンと、早鐘のように鳴っている。
(どうした?……他の角鬼どもは、襲っては来ないのか?)
脳にまでは充分な酸素が回って来ないのだろうか。ぼんやりとした意識の中で、ヒャクリキは朧げに思考する。
気付けば視界が霞んでいる。バシネットの面当ての覗き穴、そこから見える向こう側を、ハッキリと視認する事ができない。目の焦点が、どうにも合ってくれない。
体のどこかに痛みを感じたら殴り返せば良い、そんな事を投げやりに考えながら立ち尽くすヒャクリキのまわりを、そのままゆっくりと時間が通り過ぎていく。
静かだった。
大空間内のあちこちで繰り広げられているはずの戦闘の音も、角鬼たちの鳴き声も、いつの間にかヒャクリキの耳には何も聞こえて来なくなっている。
ぼんやりとした意識のせいで、耳が周囲の音を拾っていないのかも知れない。
もしくは耳はちゃんと音を拾っているが、ぼんやりとした意識がそれを認識できていないだけなのかも知れない。
静かだ。
聞こえて来るのはヒャクリキの荒い呼吸音と心臓の鼓動音だけだ。
ヒャクリキはまるで広大な荒野に取り残されて、ポツンと独りで立ち尽くしているかのような、そんな感覚に包まれている。
だんだんと目の焦点が合い始めた。
ピントが合う事で、少しずつ視界が鮮明になって来る。
ヒャクリキは気付く。
視界が悪かったのは、どうやら目の焦点が合わない事だけが原因ではないようだ。
顔を覆っているバシネットの面当てが、先ほどの“戦士”に放った頭突きのせいで大きく歪んで変形してしまい、覗き穴の片目がほとんど塞がってしまっていた。
ただでさえ狭い視界が、より不自由な状態になっている。
ヒャクリキは面当てを上げようとしてその縁に指を引っ掛けるが、面当ては台座の板金ごとひしゃげているようで、僅かにしか持ち上がらない。
(仕方ない。いっそバシネットは脱いでしまうか……)
そんな事を思ったその時、何者かが複数で自分のまわりを取り囲んでいる事を、ぼんやりとした状態から回復し始めたヒャクリキの意識が感知する。
鎧の板金やリベットが擦れ合う音、戦闘服の衣擦れの音、ブーツの踵が地面を叩く音。
ヒャクリキは片目分の視界であたりを見渡す。
彼はいつの間にか周囲を、大勢の冒険者たちに囲まれていた。
「あなたが“ドラセルオードの怪人”ね」
若い女の声が聞こえて来る。
おそらくはこの大空間に踏み込んでから、最初に聞こえて来たのと同じ声だろう。
「冒険者組合に所属せずにダンジョンを徘徊するのは法に触れる行為だ、という事くらいは勿論知ってるわよね?あなたは、一体何者なの?」
(……その“怪人”ってのは何なんだ?それにしても、やはり俺の存在を歓迎しているようには見えないな。当たり前の事ではあるが……)
狭い視界でざっと見渡しただけでも、ヒャクリキは間違いなく二十人以上に囲まれている事が分かる。
囲んでいる者たちは誰も彼もが、敵意を滲ませた眼差しをヒャクリキに送って来る。
絶望的な状況と言えた。
こうなってしまっては、何とか隙を見つけて逃げ出す以外に、ヒャクリキに採れる選択肢は無いだろう。
「…………ダンマリというわけね。まあ、あなたが“密猟者”だという事は、これまでに集まってる情報から大体察しは付いているけれど」
視界の中に、先ほどから聞こえている声の主と思われる、若い女の顔が写る。
血や埃で汚れたのだろうと思われる、化粧っ気のあまり無い女の顔には、不快感を隠す様子も無い、険しい表情が貼り付いていた。
「執行官の前に突き出されるまで、せいぜいそうやって貝みたいに押し黙っていれば良いわ。一応言っておくけど、この人数相手に抵抗は無意味よ。……とにかく、正体を明かして欲しいわね。まずは兜を脱いで、顔を見せなさい!」
(……上から目線で頭ごなしに命令されるのには慣れっこだが……何とも気分の悪い事ではあるな……)
ヒャクリキの意識には、まだ微かにぼんやりとしたモヤがかかっている。
体にも、どうにも力が入らない。今はとにかく、疲れ過ぎている。
今、この場からいきなり逃げ出したとしても、まわりに居る冒険者たちの囲みを破る事はできないだろう。
今は時間を稼がなければ。時間を稼いで、逃走するための体力を少しでも回復させなければ。
女の命令通りにバシネットを脱ごうとしてバンドの留め金を外しながら、ヒャクリキは少しだけ逡巡する。
ヒャクリキの頭にふと浮かんだ考えが、コイフの紐を緩める手の動きを止めた。
ここで顔を晒してしまえば、もしここから首尾良く逃げ出せたとしても、もうドラセルオードの街やその周辺で生活する事はできなくなる。
冒険者たちや大会を観戦する観客たち、不特定多数の人間にヒャクリキの面が割れてしまう事になるからだ。それなりに長く続いた屠畜場の仕事も、確実に失う事になる。
人目を避けて“非人窟”に潜伏したとしても、それにだって限界が有るだろう。仕事をしている今でさえギリギリの、ほとんど手元不如意と言って良い有り様の経済状態なのだ。そんな状態で、長く潜伏を続けられるはずが無い。
それに自分よりもかなり若いであろう女の命令に易々と従うのも、正直言って面白くなかった。
「脱がないならそれでも良いわ。取り押さえてから、力ずくでその不気味な兜を剥ぎ取るだけだから」
(チッ!)
やはり、どうあっても脱ぐしか無いらしい。
ええい!もう、どうとでもなれ‼︎ どちらにせよ面当てがこんな状態では、逃げるにせよ視界が悪すぎて邪魔にしかならない。
ヒャクリキは投げやりな気持ちで、小さく舌打ちする。
そして頭からコイフごと毟り取るようにしてバシネットを脱ぐと、足元に乱暴に投げ捨てた。