「揺らぐ」
(……本当にこれで良いのだろうか?)
段々とその形を保てなくなっていくヒャクリキの意識は、闇の中で揺らいでいる。
どこまでも拡がっているようでもあり、逆に限りなく無に近い大きさの空間に閉じ込められているようにも思える、そんな闇の中で、まだなんとか微かな揺らぎを、静かに、静かに続けていた。
すでに自分の命、自分そのものであるその意識が消えかけているという事実以外には、意識の揺らぎの幅の中には残されていない。
どうして自分がこうして死に逝く事になったのか、その記憶や因果関係すらも、もはや揺らぎの幅の外へと消え去っていた。
自分はこうして、ただ死を待っている。
微かな揺らぎの中で、その認識だけが巨大な絵画のように背景を塗り潰し、僅かな否定が入り込めるような、小さな隙間さえ与える事無く存在していた。
(死など恐れない。恐れるべきものではない……)
意識は微かに揺らいでいる。その揺らぎが立てる音は、勝手に鳴っているようでもあり、自身に聞かせるために鳴っているようでもあった。
自身の揺らぎから聞こえてくる音に、意識が耳を傾ける。
主観と客観がないまぜになったような、自分とその他の境界線が取り払われて、お互いが混ざり合ってしまったかのような、そんな感覚、揺らぎの中で。
…………そうだ。死とは恐れるべきものではなく、むしろ自分にとってはある種の救済であり、素晴らしい何かへと続く、その始まりだったはずだ。
であるはずなのに…………何故だろう?これで良いのだろうかと何かを駆り立てるような、軋むような音が、いつの間にやら揺らぎの中に混じったかと思うと、無視できない響きで鳴り続けている。
(何故だ?……何故だ?……何かイヤな予感がする……。いや、イヤな予感しか……嫌な予感しかしない)
微かな揺らぎの中には、まともに思考を組み立てられるような足場など既にどこにも存在しない。感覚や概念、思考の閃きの余韻の音だけがそこかしこに、欠片となって頼りなく漂っているだけだ。
そう、有り体に言えば、何かをまともに思考する事さえも既にできなくなっているのだが、しかしながら、その感覚は確かにそこに有るのだった。
これは…………まさか…………
(恐怖?……恐怖、している⁉︎…………何故?…………恐れる事など、何も無いはずだというのに……)
揺らぎの中に鳴り響いている自身の感覚。その正体が見えたかのような気がしたとき、それを表す言葉は「恐怖」、そう、「恐怖」と言う言葉こそが相応しいような気がするのだ。
何故だろう?何を恐れるというのか?
自分は間違い無く、確かに為し遂げたはずだ。
微かな意識に埋もれている朧げな記憶の中に霞んでしまって、それが何だったのかはもう思考の中では形を成さないが、為し遂げた事だけは間違いない。
その確信だけは、明確な存在感を持ってここに有る。
何を恐れているのかが分からない。それこそが怖い、恐ろしい、今感じているこの恐怖の理由なのかも知れない。
……いや、嘘だ。
何が怖いのか。本当は気付いているのではないだろうか?
気付いていて、分かっていて、それなのに、わざとそこから目を逸らしているだけなのではないだろうか?
(まさか、そんな……そんなはずは、無い……よな?…………)
そう、ヒャクリキの微かな意識に混じる、雑音の正体。
それは、「もしかしたら、死後の世界など、本当は存在しないのではないだろうか?」という疑念だった。
気付けば出現していたその疑念は、まるで体内に注入された劇毒のように急激に浸透して行き、意識の揺らぎを不協和音のような雑音で掻き乱す。
こうして死に行く事になる前、生きて動いていた頃にはハッキリとしていた意識の揺らぎであれば、それまでに積み上げた信仰心や、それまでに得ていた神々の世界に関する知識を材料にして、その疑念を一蹴し、払拭していただろう。
むしろそんな疑念さえ抱きはしなかったはずだ。
しかし今現在の意識の揺らぎ、その頼りなさでは、ふっと湧いて出た疑念に対して、まともに抵抗する事ができなかった。
ヒャクリキにとって、そこを突かれるのは致命的とも言える弱点。
その弱点が、剥き出しの状態で、荒れ狂う疑念の暴風の中に晒されている。
ヒャクリキは戦士としての宿命を抱いて生まれ、次から次へと襲い来る、苦難と試練の波に呑まれてしまわないよう、その波を掻き分け掻き分け、必死に抗って戦い、ギリギリで何とか生き抜いてきた。
全ては自分に与えられた使命を全うするために。「闘神の兵団」の列に加わるという、輝かしい栄光のために。
その信仰こそが、ヒャクリキを支える、強く大きな柱だったのだ。
認めるわけにはいかなかった。
「死後の世界」が存在せず、栄光による魂の救済も無いのだとしたら、悲痛と苦悩に塗れたこれまでのヒャクリキの人生は、一体何だったと言うのだろうか?
もしそうであれば、それは何か「大いなるもの」がヒャクリキに対して行う、途轍もなく重大な「裏切り」に他ならなかった。
そうだ、断じて認める事などできはしない。
(ザラス‼︎ ザラス‼︎ 聞こえるか⁉︎ 応えてくれ‼︎ 応えてくれ‼︎ ザラス‼︎‼︎)
微かな意識の揺らぎの中にあっては、そのような筋道の立った論理的な思考などもはやできなくなっていたが、感覚だけは尚も存在し続け、じわじわと消えゆくすべての中、その深い闇の中で、はたはたと明滅を続けている。
意識の揺らぎとその感覚は、やはり恐怖しているように思えた。
死の足音が聞こえてくる。
ひたひた、ひたひたと、どこから聞こえて来るのかも分からないが、その音は着実に、間違いなく近付いて来ていた。
自身を包んでいる闇は、押し潰そうとするかのようにして圧迫して来る。
(そんな、嘘だろう?まさか、まさかそんな……嘘だと言ってくれ‼︎ 何でも良い、何でも良いから、何かしら救いが待っていると……俺は救われるんだと、その証を与えてくれ‼︎)
疑念が掻き鳴らしていた雑音は、恐慌と狂騒によって増幅され、感覚の全てと言って良いほどに大きく膨らんでいる。
意識は救済の確信を求めて必死に声を上げようとするが、今はもう、思考の部品である言葉を紡ぐ事さえも、満足にできはしない。
迫り来る死の足音の前に、いつの間にか疑念の雑音は焦燥と恐怖が入り混じった、グロテスクな騒音となって鳴り響いていた。
(どうして何も応えてくれないんだ‼︎ ザラス‼︎ 嗚呼!ザラス‼︎‼︎ ……見捨てると言うのか⁉︎ 裏切ると言うのか⁉︎ お願いだ‼︎ 応えてくれ‼︎‼︎)
何も変わらない。
死の足音が近くで聞こえる。
(う、嘘だ‼︎ 嘘だ‼︎ そんなのは嘘だ‼︎‼︎ ……そんな‼︎‼︎ …………ザラス‼︎ ザラ‼︎………………)
揺らぎは、押しつぶされるようにして、闇の中に消えた。




