火焔と黒煙
崖の頂上にあと少しで手が届きそうになる頃には、角鬼たちの鳴き声はヒャクリキの真下のほうから聞こえてくるようになっていた。
崖の下の角鬼たちは、今まさに崖を登り切ろうとしているヒャクリキを見つけて、何やらぎゃあぎゃあとやかましく騒いでいるようだ。
(この断崖絶壁だ、奴らは登っては来られないだろう。もし登れたとしても、少なくとも追い付かれる事はないはずだ)
やかましい鳴き声の大合唱を無視して、ヒャクリキはより高い場所にある突起へ手を伸ばす。
あと少し、あと少しだ。
ヒャクリキはついに崖の頂上の縁に片腕を乗せると、足を持ち上げてこれまた縁に引っ掛ける。そして慎重に、体を岩肌から離さないようにしながら上半身を縁からせり出させると、残った筋力を総動員して一気に全身を引き上げ、その大きな体を頂上の地面に投げ出した。
(やった!やったぞ!登り切った!)
ぜいぜいと荒い呼吸をしながら、仰向けに寝転んだヒャクリキは困難な崖登りを成し遂げた達成感に包まれていた。
(これで……ようやくダンジョンの上層に到達だ。ここから入り口までは、整備された通路を進んで行くだけだ……)
ダンジョン深部からここまでの非常に高低差が大きな険しい道のりに比べれば、上層の平坦な道はどうという事は無い、優しい道のりだと言える。
ただ……
(そうか、今はきっと冒険者たちが潜って来ているはずだった。……果たしてそいつらと鉢合わせしないように、上手く迂回できるだろうか?)
《ドラセルオード・チャンピオンシップ》に出場している冒険者たちがどこまで潜って来ているのかは不明だが、こうして悠長に休んでいるような時間が無い事だけは確かだと言えた。
ヒャクリキは呼吸が落ち着いた事を確認すると、仰向けの状態からのそりと起き上がる。
そのまま立ちあがろうとするが、自分で自覚できるほどに体が重い。
このダンジョンに潜ってからは、ほとんどまともに食べていない。水分の補給も充分とはとても言えない状態だった。
潜る行程こそ楽だったものの、帰りの行程は打って変わって非常にタフなものになってしまった。
崖を登っている間じゅう強いられた緊張の糸が切れた事で、これまでの疲労が一度に噴き出したような、そんな感覚にヒャクリキは襲われている。
(これで誰も潜って来てなかったらただの笑い話だが、できればむしろそうであって欲しいものだ……)
甘い期待である事は分かっていても、そんな事を考えてしまう。
今回は得られた収穫が少なく、その結果また日々の金策に苦しむ事がほぼ確実になってしまったとは言え、密猟者として捕縛されるよりは遥かにマシだ。
(あの通路が交差する、迷路のような場所まで行ければ迂回も容易くなるだろう……とにかくそこまで急いで向かうか)
ヒャクリキは重い体を意識しないようにして立ち上がると、あたりを見回す。
まず目に飛び込んで来るのは、“首の無い女神像”だ。
腰布を巻いた上半身裸の女性を象った石像なのだが、首から上が乱暴に折り取られたかのようにして無くなっている。
両手で水瓶か壺のような何かを抱えたポーズをとっており、細かい部分まで、なかなか写実的な造形が施されていた。
この国のあちこちに同じ像が立っている事は一般にも知られているが、そのどれもが同じように頭部を失った状態で残されているらしい。
なぜ“女神像”と呼ばれているのか、その由来を知る者にこれまでヒャクリキは会った事が無いのだが、世間一般でそう呼ばれているのなら、これは確かに“女神像”なのだろう。
目の前にあるのはかなり大きな像だった。普通の人間の3倍ほどの大きさがある。
その重さを支える台座も、それに見合う大きく、重厚な造りだ。
何やら文字のようにも見える模様がところどころに彫られている。
ヒャクリキはその台座の傍に、何やら布を掛けられた木箱のような物がいくつか並んで積まれている事に気付いた。
(これは……探索用の物資だろうか?)
潜る時には台座の陰になっていて気付かなかったが、どうやら何かの物資が置かれているようだ。おそらくは例の大会に関係する物なのだろう。
やはり、このダンジョンが大会の攻略対象である事は、ほぼ間違い無いようだ。
(水や食料は入ってないか?手持ちは僅かな水が水筒に残っているだけだ。もし有ればかなり助かるが……)
今にもこの場所に冒険者たちが現れるかも知れない。
そんな状況で物資漁りに貴重な時間を使うのは、もしかすると危険な事なのかも知れないが、すでに抑え難いほどの空腹と喉の渇きを抱えているヒャクリキは、気付けば無意識のうちに掛けられた布を剥ぎ取り、ウォーハンマーで木箱の蓋を叩き割っていた。
木箱の中を覗くと、液体が入っている緑色をしたガラス瓶が何本か収められているのが見えた。もしや水かと思って手に取ると、その瓶の口はかなり厳重に封をされている。
ヒャクリキはナイフを取り出し、瓶の口を何重にも覆っている油紙を切り裂くと、口に嵌まっている栓を指先で摘んで力ずくで引っこ抜いた。
しかし、ポンッと栓が抜ける音とともに瓶の中から溢れ出した匂いを嗅ぐと、ヒャクリキは見事に期待を裏切られたと理解する。
(くそっ!ハズレだ‼︎ 水じゃない)
瓶の中身は、一般に“燃える水”と呼ばれている可燃性の液体だった。非常に危険な代物で、小さな火花に触れたり高温の熱源に晒されるだけで、いとも簡単に引火して燃え上がる。もちろん水の代わりに飲む事などできない。
無色透明で粘度も水とほぼ同じだが、独特の臭気を放つので簡単に見分ける事ができる。しかし取扱い免許を持った専門の管理者無しでこれを使用すれば、法律違反として罰されるほどの危険性を秘めていた。
目当ての物が見つからない事に苛立ちながら木箱の中を漁るが、入っているのは嵩張る医療器具や、おそらくは簡易テント用であろう布などばかりで、求めている物はどうやら含まれていないようだった。
続けてすべての木箱を漁っても、結局、水や食料は出てこなかった。
「クソがッッ‼︎‼︎」
ヒャクリキは木箱の一つを掴んで持ち上げると、八つ当たりとばかりに放り投げる。音を立てて地面に叩きつけられた木箱は、派手に中身の物資をあたりに撒き散らしながら転がった。
期待はずれの結果にがっくりと肩を落とし、ヒャクリキはその場に立ち尽くす。
仕方がない、気持ちを切り替えて先を進むしかない、それしかないとヒャクリキが思ったその時だった。
気付けば、さらに数を増したと思われる角鬼たちの鳴き声が、崖の下から聞こえて来る。
その騒がしい鳴き声につられたヒャクリキが崖の縁まで歩いて行き、そこから下を覗き込むと、崖の岩肌に大勢の角鬼たちが取り付いて、登ろうとしているのが見えた。
人間に比べると角鬼の体は軽く、おそらく崖登りでは有利だと思われるが、さすがにほぼ垂直に切り立った崖を登るのは難しいようだ。ある程度は登れても、手や足を滑らせて落ちて行くのが見える。
大きな体躯の“戦士”も、無謀にもなんとか崖を登ろうとしているようで、巨体の重さを支えられずに岩肌をずり落ちては、足下にいる角鬼を踏みつけにしていた。
ヒャクリキは切り立った岩肌の壁に群がる角鬼たちをぼうっと眺めていた。
ヒャクリキの瞳に、無謀な挑戦を続ける角鬼たちの奮闘が映っている。
岩肌の壁を登ろうとする角鬼の背中を、さらに別の角鬼がよじ登ろうとする。そして重さに耐えきれず、2体まとめて落ちていく。
落ちて地面に叩きつけられた角鬼を、次に登ろうとする角鬼が踏みつける。次から次へと、我先に崖を登ろうとして岩肌に角鬼たちが取り付いて行く。
上にいる角鬼の重みで、下敷きになった角鬼の中には圧死する哀れな個体もいるだろうと思われた。
なぜあそこまで必死になるのだろう?
なぜうんざりするほどにしつこく追ってくるのだろう?
氏族の利益のためだろうか?それとも皆と同じように奮闘しない事には、それぞれの個体の氏族内の地位や立場が脅かされるからだろうか?
何かに取り憑かれているかのように崖を登ろうとする、そしてヒャクリキを追いかけようとする角鬼たちのその姿は、崖の頂上に居るヒャクリキから見ると、なんとも滑稽に感じられるものだった。
そんなヒャクリキの隣には、灰色の感情が静かに佇んでいる。
ヒャクリキは光のない瞳で、しばらくそのまま角鬼たちを眺めていたが、ふと思い立ったかのように動き出す。
物資を収めた木箱のところまで行くと、“燃える水”が入った緑色のガラス瓶を数本取り出し、両手に持って、小脇に挟んで抱える。そして再度崖の縁まで歩いて戻って来た。
持ってきた数本の瓶を地面にそっと置き、先ほど開けた1本の瓶を手に取ると、その瓶の口から、物資を包んでいた粗紙を捩って棒状にしたものを突っ込む。そして中の液体に少し浸したそれを取り出すと、瓶の中身を崖の上から、下にいる角鬼たちに向かって注ぎ始めた。
撒き散らされるようにして瓶から出ていく“燃える水”が、崖を登ろうとしている角鬼たちに降り注ぐ。その独特の臭気を嫌ったのか、角鬼たちが騒ぐ声はより大きくなっていった。
ヒャクリキは空になった瓶を下に放り投げると、ベルトに着けた小さな鞄から発火石を取り出し、“燃える水”を浸した棒状の紙の先端の近くで打ち付けて火花を飛ばす。何回か打ち付けると、紙の棒は着火して勢い良く燃え始めた。
遥か下方に見える角鬼たちをじっと見つめたまま、ヒャクリキはバシネットの面当てをゆっくりと下ろし、顔を覆う。
そして一つゆっくりと呼吸すると、手に持った先端が燃えている紙の棒を、崖の下の角鬼たちに向かってそっと落とした。
薄暗い闇の中を炎の光が落下して行く。
その光が角鬼たちに覆われた地面に到達したその瞬間、目も眩まんばかりの光とともに、垂直に切り立った崖を舐めるかのような、大きな火焔が巻き起こった。
火焔は崖の頂上に居るヒャクリキの目の前の高さまで一瞬で舞い上がる。
ヒャクリキはその炎の勢いに驚くような様子も見せず、新しい瓶の封を開けると、またしてもその中身を下に向かって注いでいく。
遥か下方の地面で燃え盛り、どんどん燃えている範囲を拡げていく炎は、新しく注がれる燃料にさらに引火していき、そのたびに大きな火焔が何度も巻き起こる。
そして炎とともに勢いよく湧いてくる黒煙がみるみるうちに膨れ上がって、この崖のある空間を侵略して充満していくのだった。
気が触れて暴れ狂うかのように舞い上がる炎、火焔の中を、恐慌状態の角鬼たちが、同じく気が触れたかのように悲鳴を上げながら駆け回っている。
生物が持つ本能的な火への恐怖に駆り立てられて、
炎の熱に焼かれ、追い立てられながら、安全な場所を求めて、
お互いに押し合い、圧し合いしながら、勢い良くぶつかって逃げ惑う角鬼たち。
燃え盛る火焔の中で、炎の光に照らされた角鬼たちが凄惨に蠢く、まさに地獄絵図とも言えるような光景が広がっていた。
ヒャクリキがそのまましばらく眺めていると、炎の熱に肺を焼かれたのか、酸欠に陥ったのか、角鬼たちはバタバタとその場に倒れ始めた。
この有り様ではさすがに角鬼たちも、もうヒャクリキを追っては来られないだろう。
ヒャクリキのバシネットの面当ては、炎の光を反射して鈍く輝いている。
面当てに覆い隠されたヒャクリキの顔は、今どんな表情をしているのか。
覗き穴の奥にある瞳には、今どんな感情が宿っているのか。
そのどちらも、窺い知る事はできない。
炎に照らされる黒煙の色がより濃くなり始めた事に気付くと、ヒャクリキは崖に背を向けてゆっくりと歩き出した。