崖登り
岩肌から少し飛び出た突起に左手の指を掛けた瞬間、いきなりその突起ごと、そのまわりが剥がれ落ちた。
力を込めた左手が滑って空を切る。
驚いたヒャクリキの背筋に、冷たい雷のような感覚が疾った。
同時に右手の、これまた盛り上がった岩を掴んでいる手と指先に、左手が負担するはずだった分の体重が襲いかかって来る。
イメージしていた体勢に移行する事に失敗し、ヒャクリキの体は大きくバランスを崩してしまった。
剥がれた岩と、そのまわりの砂利や小さな石が、カラカラ、パラパラと乾いた音を立てながら下へ落ちていく。
その音は下へ下へと移動していきながら、しばらく鳴り続けた。
常人離れしたヒャクリキの握力は、崖の岩肌にへばりついた体を何とかそのままの体勢に維持しようとして、掴んでいる岩を砕かんばかりに太い指で締め付けている。
予期せぬアクシデントにより崩れたバランスを整えながら、ゆっくりと重心を移動させ、体重のほとんどを、これまた出っ張りに掛けている両足のつま先にじわじわと乗せていく。
そして遊んでいる左手の指先を引っ掛けるのに適当な場所を探す。腰に着け直した魔煌ランタンの青白い光は、ヒャクリキの体に遮られて岩肌をしっかりと照らしてはくれないが、夜目が利くヒャクリキの目には岩肌の凹凸がちゃんと視認できていた。
慎重に左手の指先を手頃な出っ張りに引っ掛けて全身の体勢を安定させると、ヒャクリキは大きく一つ、息を吐いた。
ヒャクリキは、ほぼ垂直に切り立った崖をよじ登っている。
しつこく追って来る角鬼たちを引き離したまでは良かったが、ダンジョン入り口に向かうルートの途上に、断崖絶壁が立ちはだかった。
登る前にかざした魔煌ランタンの灯りで、ぼんやりと崖の頂上が見えた時にはそれほどの高さではないと感じたが、実際に登り始めてしばらく経った頃には「他のルートを探すべきだった」と、指先の痛みを感じながらヒャクリキは後悔していた。
しかし、後悔した時にはもう飛び降りるには高すぎる位置まで登ってしまっており、もはや登り続けるしか選択の余地が無い状況になっていたのだった。
ヒャクリキは気を取り直すと、両手の指先により力を込める。片足を持ち上げて新たな出っ張りをブーツ越しの足の指先の感触で探し出すと、そこへつま先を乗せて慎重に体重を移していく。
可能な限り腕の筋力を使わず、体重はなるべく両足に乗せる。考え無しに腕を使い過ぎるとすぐに消耗して、握力が失われてしまう。
もし握力を失い、この高さから落ちてしまえば、おそらく軽傷では済まないだろう。
頭を使い、登っていくルートを探りながら、体力の消耗を防ぐとともに本能的な恐怖心を押さえつける。ヒャクリキの額にねばつくような汗が噴き出す。
とにかく今はこうやって少しづつ、ジリジリと上を目指して登っていくしかない。崖の上までは、あとどれくらいあるのだろうか。身を守るための重装備が重荷となり、ヒャクリキの体力を削っていく。
ヒャクリキはふと動きを止めると、荒くなりつつある呼吸を鎮めようと、意識して息を整え始めた。
ヒャクリキには、奴隷だった少年時代に主人の狩りに同行し、勢子として駆り出されて山に入った時、今のように崖を登った記憶がある。
あの時も辛かった。確かその頃は靴さえも与えられていなかったので、裸足の足を傷だらけにし、手にはあちこち血マメを作り、汗と泥でドロドロになりながら必死で崖をよじ登って、やっとの思いで木に結んだ縄梯子を崖の下に降ろしたのだった。
主人は「遅い!」とだけ不機嫌そうに口にすると、ヒャクリキの必死の働きに鞭の痛みで報いた。
別に褒めてもらえるなどとは思ってはいなかったが、その日の鞭は特に痛かった事を覚えている。
狩りに同行した他の奴隷たちの中には崖から落ちて足を折った者、獲物の反撃で酷く負傷した者も居た。
日も沈みかけた帰り道。歩けない、もしくは不運にも息絶えて馬車の荷台に乗せられたその者たちを羨ましく思いながら、少年時代のヒャクリキは、くたびれ果ててふらつくその細長い体を引きずり引きずり、置き去りにされないように必死で一団について歩いていた。
二十年以上昔のあの時の感情が、崖にへばりつくヒャクリキの中に甦る。
冒険者稼業をしていた頃、傭兵として戦場を駆け回っていた頃もそうだが、それ以上に奴隷だった頃にはロクな思い出が残っていない。
苦難と苦痛と屈辱だけが、少年時代の彼の日常だった。
ヒャクリキを取り巻く世界はそのすべてがヒャクリキの敵に他ならず、この世界の残酷さの前へ乱暴に突き出されるたび、少年時代の彼はまだ幼いなりにも、自分に課せられた戦士の宿命をより強く確信していくのだった。
父がヒャクリキに遺してくれたザラスへの信仰が無ければ、おそらくヒャクリキ少年の心は早々に壊れてしまい、生きて成人の年齢を迎える事はできなかっただろう。
渇ききって、ひび割れた、パラパラと崩れていきそうな、灰色の空虚な感情。
その感情は、苦難に向き合い、立ち向かうヒャクリキに常に寄り添い、いつもその傍で確かな輪郭を保ちながら、静かに、じっと彼を見つめていた。
今でも時折こうして辛い状況に陥るたびに、あの頃の記憶と感情が甦って来るのは、精神の防衛機能か何かなのだろうか?
その灰色の感情を自覚するたびに、ヒャクリキは腹の底の、深い深い場所で静かに燃えている、どす黒い澱のような怒りの炎に、それをそっと焚べていく。
すると黒い炎は勢いよく燃え上がり、彼の体には奇妙な、まるで彼の精神を追い立てて突き動かすかのような不思議な力が、ごんごんと湧き上がって来るのだった。
(動く。俺の体はまだ動く。心臓も鼓動を刻んでいる。そう、動かなければ苦しみから解放などされはしない。自分以外に、自分を救える者など有りはしない‼︎ ……動け、動け……止まるな!動くんだ‼︎)
伏せていた視線を上に向けると、ヒャクリキは再び崖を登り始める。
登り始めたら雑念は振り払い、余計な事は考えない。
羽化する場所を求めてより高い場所を目指す虫のように、ただただ登っていくだけだ。
そんな調子でしばらく登っていると、まるで棚のように崖から突き出た場所がある事にヒャクリキは気付いた。
やや斜め上に位置するその場所へと、少しづつ近付いて行くようによじ登り、その縁に両手を掛けて体重を支えられる事を慎重に確かめると、ヒャクリキは全身に思い切り力を込めて、一気に自分の体を引き上げてそこへ乗せた。
登ってみると、崖から突き出たその足場は思った以上の広さがあり、大人一人くらいなら寝そべる事もできそうだった。もっとも、ヒャクリキの大きな体だとかなり窮屈なのは間違いないが。
(助かった!ここならしばらく休む事ができる……)
ヒャクリキはこれ幸いと、足場に腰掛けて小休止を取る事にした。
少し休んだらまた登り始めなければいけないが、体力がある程度回復すれば、何とか残りを登り切る事はできそうだ。
ゴールが見えたような気がして、ヒャクリキは大きく安堵のため息を吐く。
下を見れば結構な高さを登って来た事が分かる。角鬼たちが追い付いてここまで来たとしても、この高さなら追っては来られないだろう。
急に喉の渇きを覚えたヒャクリキは、腰のベルトから水筒を外す。
3つ持ち込んだ革製の水筒は、2つはぺしゃんこになっており、最後の1つに容量の半分ほどの水が残っている。
その水を少しづつ、口の粘膜に染み込ませるようにちびりちびりと、舐めるようにして飲んでいく。
考えてみればかなり長い時間走りっぱなし、その後に激しい戦闘を経て、今度は命綱無しの崖登りだ。喉が渇かない方がおかしかった。
ヒャクリキはそのまま、水を少し飲んではふぅ、と息を吐きながら、稼働しっぱなしだった体と頭を休めていたが、急に思い立ったかのようにゆっくりと立ち上がると顔を上に向け、崖登りの残りの行程を確認し始める。
今まで登ってきた高さに比べれば残った高さはそれほどでもなく、手や足をかける突起さえ上手く見つけられれば、一息に登れそうな気がした。
意を決して最初の突起に手をかけると、ヒャクリキの後方のかなり遠くから、角鬼たちのものらしい鳴き声が、微かに響いて聞こえて来た。